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アパッチ族の歴史

デール・ケステン

米陸軍の最新攻撃ヘリ「アパッチ」に搭乗する操縦士は、その名前が由来しているアメリカ南西部に実在した凶暴なインディアン戦士と同じように、隠密、迅速かつ確実に奇襲攻撃を行う能力を持つことが求められている。

「アパッチ」という言葉は、多くの人々に恐怖心や畏怖心を抱かせる。「アパッチ」とは、フランス語で「凶悪な暴力集団」を意味し、インディアン言語のズニ語で「敵」を意味する言葉がその語源である。アメリカ人にとって、「アパッチ」という言葉は、250年以上もの間、スペイン人とのゲリラ戦を戦い抜いた、どう猛で好戦的な戦士というイメージを抱かせる。

残酷かつ非情な行為の背景にあるもの

誇り高きアパッチ族の人々が、何百年間にもわたってスペイン人、メキシコ人及びアメリカ人の支配を受けなければならなかった理由は、その行為があまりにも残忍だったからである。アパッチ族は、元来、非常に攻撃的な部族であった。他のインディアン部族を含む敵に対し、日常的に襲撃や略奪を行い、極めて残酷かつ非情な行為を行ったことが、スペイン人やアメリカ人が彼らを極度に恐れ、嫌悪する要因となった。
 最近になって、一部の研究者が、「これらの残酷かつ非情な行為の背景には、法的に保護されていなかった祖国や祖先に対するアパッチ族の権利を守るという正当な理由が存在していた」とする研究成果を発表した。 しかしながら、「アパッチ族抵抗派は、あまりにも反動的であるが故に、時代の変遷や近代社会の改革に適合できず、不満を持った反乱分子に過ぎない」という旧来からの考え方の方が多くの人々に支持されている。
 真実とは、常に矛盾を伴うものである。アパッチ族の人々は、不毛な灼熱地帯に設けられたインディアン保留地に居住させられながらも、抵抗派を支持していたのは、ほんの少数に過ぎなかった。それどころか、何百人というアパッチ族が、アパッチ族抵抗派を追い詰めるための偵察部隊として、アメリカ陸軍騎兵隊に協力していたのである。

略奪部族としての文化の定着

アパッチ族は、アサバスカン語を用い、6つの部族で構成されるインディアンであった。アパッチ族は、約5,000年から6,000年前にシベリアからアラスカに渡り、カナダ北西部の亜北極帯地域において、遊牧生活を始めたと考えられている。約900年前になると、一部の人々が南へ向かって移動を始めた。この移動は、冬の気候が温暖な土地を求めたものであったのかも知れないし、あるいはバッファローの群れの移動を追っただけだったのかも知れない。
 アパッチ族は、プエブロ地方(現在のアメリカアメリカのアリゾナ州やニューメキシコ州とメキシコのソノラ州やチワワ州にあたる)の乾燥した荒野にその生活圏を徐々に広げていった。その後、その地方に元々あった煉瓦造りの平和な街を襲撃し、奴隷や家畜等を奪うようになり、略奪部族としてのアパッチ文化を築き上げていった。
 1500年代になると、スペイン人がオールド・サウスウエスト(現在のバージニア州にあたる)に到達した。 スペイン人は、アメリカ大陸に初めて強力な軍用馬と銃をもたらし、植民地を形成すると、直ちにプエブロの街の略奪を開始し、何千人ものインディアンを殺戮したり、拷問したり、奴隷にしたりし始めた。
 その頃のインディアンは、まだ馬に乗ることを知らなかった。スペイン人は、自分達の持ち込んだ馬がインディアンの手に渡らないように注意していたが、アパッチ族は、ついに馬を盗み出して、乗るようになった。 ただし、アパッチ族は、元々走るのが得意であり、馬は食用にすることが多く、襲撃や戦闘に使うことは少なかった。
 1600年代の中頃になると、アパッチ族とスペイン人との間での襲撃や殺人において、凶暴な戦闘方法が日常的に行われるようになった。平和な商取引が行われた時期もあったが、それ以外の時期においては、憎悪に満ちた血なまぐさい奇襲戦闘が絶え間なく続いていた。

メキシコ及びアメリカとの闘争

ジェロニモは、10年以上にわたってアメリカ及びメキシコの陸軍と戦い続けた、最後のアパッチ族抵抗派である。
 「アパッチ」という言葉は、「敵」を意味している。

1821年にスペインからの独立を果たしたメキシコは、スペイン人の古くからの風習にならい、アパッチ族の戦士の頭皮に懸賞金を掛け、アパッチ族の領地に奴隷狩り遠征隊を派遣し始めた。この頃には、アパッチ族も銃を使用するようになっていた。1848年にニューメキシコとアリゾナを統治下に置いたアメリカは、このメキシコとアパッチ族との闘争状態を引き継がなければならなかった。
 この時期のアパッチ族の戦争指導者は、ウォームスプリングス部族の長老であったマンガス・コロラダスと、その義理の息子でチリカファ部族のコチセの二人であった。1850年代には、北側の地域で一部のアパッチ族戦士によるアメリカ人に対する窃盗や殺人が発生するようになった。しかしながら、コロラダスやコチセは、アメリカ人に対して、あまり敵対意識を有していなかった。その一方で、以前から敵対してきたメキシコ人に強い憎悪を抱き、これに対する略奪行為を繰り返していた。
 ところが、一人のアメリカ陸軍中尉の行動が、この状況を一変させてしまった。1861年に近傍の牧場から牛が盗まれ、少年が誘拐された事件について、コチセが関与したものと誤認したその陸軍中尉は、和平交渉と偽ってコチセをおびき出し、これを捕らえた。コチセは、かろうじて逃げ出したものの、陸軍中尉側とコチセ側の双方の人質が殺害されてしまった。その後、アメリカ陸軍により孤立状態に追い込まれたアパッチ族は、ニューメキシコやアリゾナにおいて、圧倒的多数のアメリカ人に対し、殺戮と破壊のための戦闘を行い始めた。
 それから12年間の間、残忍なゲリラ戦争が各地で続いた。アパッチ族の集約・撲滅に関する指針を定めたアメリカ人は、保留地に入植することを拒絶したアパッチ族の戦士を野生動物のように追い回し、捕獲・殺害するようになった。
 1872年、アメリカ陸軍の騎兵攻撃部隊がアパッチ族の要塞を陥落させることに成功した。 そして、要塞から逃げ出して放浪していたアパッチ族の人々に、非情かつ過酷な追撃を続けた。1873年、これ以上の抵抗が無益であることを悟ったアパッチ族の人々は、とうとうアメリカに降伏し、灼熱の砂埃が立ちこめる保留地への入植を開始した。
 アメリカ人とアパッチ族との間には、つかの間の平和が訪れたが、その後、無能なインディアン管理者達が、保護政策を利用して私腹を肥やし、多くのインディアンの人々を飢餓状態に陥れるようになった。この状況を打破しようと立ち上がったのが、ビクトリオ、ナナ及びジェロニモという3名のアパッチ抵抗派であった。アパッチ族による戦いの歴史の最終章が始まったのである。
 ビクトリオ、ナナ及びジェロニモは、メキシコのシエラマドレ山脈に構築した要塞から、アメリカ側とメキシコ側の両方に襲撃を続け、何千人もの兵力を有するアメリカ軍及びメキシコ軍を10年以上にわたって苦しめ続けた。
 1886年9月、最後のアパッチ族抵抗派であったジェロニモがついに降伏し、アパッチ族による戦いの歴史が幕を閉じたのである。

デール・ケステンは、本記事が書かれた1981年当時のアーミーアビエーション誌編集長です。
出典:ARMY AVIATION, July 2010, Army Aviation Association of America
翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット
備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。

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