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陸軍航空の情報センター

イーグル・クロー作戦

アメリカ陸軍空挺および特殊作戦博物館

1980年4月24日、テヘランで拘束された66人のアメリカ人人質を救出する軍事作戦は、8名のアメリカ軍人が死亡し、人質も救出できないという不運な結果に終わった。イーグル・クローと呼ばれるこの作戦について、詳しく説明することにしよう。

背景

1979年11月4日、およそ3,000人の過激派学生がテヘランのアメリカ大使館を襲撃し、63人のアメリカ人を人質にした。さらに、イラン外務省でも、3人のアメリカ人外交職員が拘束された。事件が起こったのは、ジミー・カーター米大統領が、追放されていたイランのパーレビ国王のアメリカ入国(がん治療のためであった)を許可してから2週間後のことだった。イランの新しい指導者となったホメイニ師は、アメリカに対し、パーレビ国王を送還し、西側諸国によるイランに対する影響力の行使をやめるように求めた。11月中旬までに、13人の人質が解放された。しかし、その後の交渉は進捗せず、残りの53人の人質は、1980年4月の時点で5か月間にわたって拘束され続いていた。

作戦の準備

この間、アメリカ軍の指揮官たちは、実行の可能性のある救出作戦を計画し、その際に必要となる部隊および装備を評価するための訓練を実施していた。1980年4月16日、カーター大統領が軍事救出作戦の実施を承認した。この作戦には、アメリカ軍の4つの軍種すべてが参加していた。2日間にわたるこの作戦の実行には、テヘランの南東約320マイルにある塩原(コード名:デザート・ワン)でヘリコプターとC-130輸送機が合流することが必要であった。その場所で、ヘリコプターはC-130から燃料の補給を受け、戦闘部隊をピックアップすることになる。その後、戦闘部隊はヘリコプターにより山岳地帯まで空輸され、翌日の夜に救出作戦を開始する予定であった。4月19日、オマーン全土およびアラビア海全域に部隊が展開を開始した。

アメリカ陸軍の空挺および特殊作戦博物館のスタッフが洗浄作業に取り組んでいる、イーグル・クロー作戦の計画立案および準備に使用された大使館敷地の模型(復元準備中)

作戦の失敗

1980年4月24日、アメリカ海軍の8機のRH-53Dシースタリオン・ヘリコプターが、アラビア海に浮かぶ空母ニミッツの甲板から発艦し、イラン国内の砂漠で6機のC-130輸送機と会合するための600マイルの飛行を開始した。飛行編隊は、砂漠でよく見られる現象である「ハブーブ」(激しい風によって生じる砂嵐)に遭遇した。デザート・ワンに到着後、極度の視界不良、ヘリコプターの故障、搭乗員の疲労困ぱいなどの報告を受けたカーター大統領とそのスタッフたちは、任務の中止を決定した。その後、ヘリコプターと輸送機との衝突事故が発生し、搭乗員に死傷者が発生した。

イーグル・クロー作戦の残骸

未来への希望

イーグル・クロー作戦は失敗に終わったが、この作戦が残した遺産は今日まで受け継がれることとなった。1980年4月24日の出来事は、各種特殊作戦部隊間の互換性および相互運用性の必要性を浮き彫りにし、統合特殊作戦コマンド(Joint Special Operations Command, JSOC)(ノースカロライナ州フォート・ブラッグ)の創立をもたらしたのである。

アメリカ陸軍空挺および特殊作戦博物館に保管されているイーグル・クロー作戦の計画立案に使用された地図(2枚とも)


                               

出典:OPERATION EAGLE CLAW, U.S. Army Airborne & Special Operations Museum 2023年09月

翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人

備考:出典に記載の年月は、ウェブサイトの閲覧年月です。

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