AVIATION ASSETS

陸軍航空の情報センター

教えることの重要性

中佐 シンシア・グライスバーグ
アメリカ陸軍安全センター

当時、18歳のフロリダ工科大学(FIT)学生だった私は、ある航空プログラムに参加していました。フロリダ州メルボルンのビーチで夏を過ごしたかった私は、高校卒業直後の7月にそのまま大学に入学していました。そして、手っ取り早く自家用操縦士免許を取得するため、その大学のサマープログラムのひとつに入ることにしたのです。8週間にわたるそのコースでは、午前中には座学、午後には搭乗の教育が行われました。

最初の単独飛行をすることになったのは、そのコースが始まってまだ早いうちでした。滑走路の端で教官が注意深く(そして祈りをもって?)見守る中、トラフィック・パターンを3回飛行し、比較的スムーズに着陸することができました。その訓練は大成功でした(少なくとも私にはそう思えました)。

教官の援助がなくても着陸できることを証明した私は、飛行場から離れたところでの単独飛行が許可されました。まだ飛行経験は10時間強でしたが、その単独飛行では、訓練場まで飛行してさまざまな操縦課目を訓練することになっていました。その日の課目は、ゆるやかな8の字飛行、定点旋回、そして失速でした。

まず、8の字と旋回をそれぞれ数回、簡単にこなすことができました。自分の操縦技量にさらなる自信を得た私は、失速の訓練を開始することにしました。その訓練には明確な手順が示されており、まず地上5,000フィート(AGL)まで上昇してから訓練を開始することになっていました。しかし、私には、その手順の重要性が分かっていなかったのです。私は機体を上昇させ、翼を失速させ、機首を前に倒し、ゆっくりとパワーを加えて浅いダイブから抜け出すつもりでした。私が搭乗していたパイパー・チェロキー140は、非常に安定した機体でした。私の操縦技量も、機体の性能も素晴らしい。何も恐れるものはない…そう思っていました。

示されていた手順に違反し、対地高度は約1,200フィートで失速課目を開始しました。操縦桿を引くと、チェロキーは上昇を開始しました。その上昇は、以前に教官と一緒に失速訓練を行った時よりも速く感じられ、対気速度がなかなか下がりませんでした。高度2,000フィートを通過しても、まだ上昇を続けていました。空力に関する1週間の教育を振り返りながら、教官の体重がない分、パイパーの性能が向上していることに気づきました。そこで、機体に加わる荷重 (G荷重) を増加させるため、翼をバンクさせて旋回に入りました。その瞬間、翼が失速しました。

それまで10時間にわたって行ってきた失速訓練は、機首上げ、失速、機首下げ、回復という過程を踏むものでした。しかし、今回の失速は違っていました。機首上げ、バンク、失速、そしてスピン!!!!最初は「カッコいい!」と思いました。しかし、すぐに現実に引き戻されました。スピンから回復する方法を教えられていなかったのです。フロントガラスには、青色の渦巻き模様に囲まれた緑色の円が見えていました。機体はらせんを描きながら地面に向けて急降下してゆきました。

操縦桿を引いて機首を上げようとしましたが、反応がありませんでした。操縦桿を前に戻してから、もう一度引きました。操作を繰り返せば状況が変わるかもしれないと思ったのです。しかし、そうはなりませんでした。機体は地面に向かって、らせんを描き続けていました。緑色の円が大きくなり、青い空が小さな点となって視界の端を通り過ぎてゆきました。

あまりにも急激な降下のため、私はラダー・ペダルの上に立つような姿勢になりました。その時、どちらか一方のペダルに多くの体重がかかったことで、スピンが止まってくれました。その後は、操縦桿を引くと、機体が反応してくれました。ついに、機体は異常な急降下から抜け出したのです。その時の対地高度は、わずか500フィートほどでした。あと数秒遅ければ、私の両親は警察から娘の早すぎる死を知らされることになったでしょう。

急降下から回復すると、恐怖と怒りに震えながら飛行場へと向かいました。私は危うく自殺してしまうところだったのです。もちろん示されていた手順に従わなかったのは私の責任ですが、教官にも責任がありました。教官になぜ単独飛行の前にスピンからのリカバリーについて説明しなかったのかを尋ねると、あなたにはまだ必要がなかったからだと答えました。また、チェロキーは安定していてスピンする可能性が低いとも言いました。このため、パイパー140でスピンの訓練を行う必要はないというのです。

それは間違っていました! たしかに、チェロキーはスピンに入りにくい機体ですが、搭乗者数が減って搭載重量が大きく変わると、その特性が変わってしまうのです。当時の私の体重は約98ポンド(約45キログラム)でした。教官の体重はもっと重かったはずです。この搭載重量の減少は、飛行特性に劇的な変化をもたらしました。教官は、初心者のパイロットである私にこの点をしっかりと教えるべきだったのです。

あとになって、初めてTH-55で単独飛行したときの私の体重は約105ポンド(約48キログラム)で、教官は240ポンド(約109キログラム)を超えていました。その教官の場合は、自分が搭乗していない状態でホバリングする時にはサイクリックの位置が変わることを私に警告するのを忘れていませんでした。その警告がなかったら、ランプの上でダイナミック・ロールオーバーを起こしていたかもしれません。

話をもとに戻します…対地高度5,000フィートの訓練開始基準は適切なものでしたが、その基準が私にとって重要なものである理由はだれも教えてくれませんでした。それは、航空機を失速(私の場合はスピン)状態から回復するために必要な時間の余裕を確保するためのものだったのです。その目的が理解できていれば、この基準をもっと真剣に受け止めていたに違いありません。

すべての教官および部隊指導者は、若手パイロットが自信過剰になりやすいことを認識すべきです。何かを教えるにはまだ早いとは考えるべきでありません。緊急事態はいつ発生するかわかりません。すべての搭乗員には考えられるすべての緊急事態から回復するための操作を教えておく必要があるのです。

シンディ・グライスバーグ中佐は、陸軍安全センターの法務官であり、元第101空挺師団(ブラック・ホーク)のテスト・パイロットです。18歳でFAAの自家用操縦士免許を取得し、20歳前に民間機の計器飛行資格を取得しました。連絡先は、DSN 558-2924 (334-255-2924) または電子メール cynthia.gleisberg@safetycenter.army.mil です。

                               

出典:FLIGHTFAX, U.S. Army Combat Readiness Center 2023年11月

翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人

備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。

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