雪中飛行
それは10月のある日のことであった。パイロットたちがブリーフィングに参加するため、クロアチアからボスニアの上級司令部までの飛行任務を行うことになった。ボスニアまでの飛行は恒常的に行われていたが、今回の飛行がいつもと違っていたのは降雪中の飛行であることだった。いったい何が起こるのか、私には予想できていなかった。
飛行準備は、通常どおり、チェックリストに従って進められた。機長から降雪に関する気象ブリーフィングを受けた後、機体の飛行前点検を実施し、装備品を搭載し、準備完了を確認した。エンジンを始動し、通常の離陸前手順を行った。離陸した時は、それほど降雪が強くなかった。いくつかの経路が選択できたが、我々にとって重要だったのは、「悪天候」がどの経路を選択するかであった。我々は、いつもどおりの経路を選択した。
晴天であれば、15分間しかかからない飛行経路であった。飛行を開始した我々は、気さくに冗談を言い合いながら、悪天候に打ち勝つ方法について話し合っていた。ボスニアに着陸すると、パイロットたちはブリーフィングに向かい、私は機体の点検を開始した。パイロットたちがブリーフィングから帰るまでには、点検を完了できる予定だった。
点検を行っている間に、雪が強く降り始めた。「悪天候」が向かってくる方向を見ると、状況はかなり悪そうであった。何度も時計を見ては空を見上げ、我々の飛行に影響がないかを心配していた。天候は、良くなったり、悪くなったりを繰り返していた。離陸できるかどうかは、運次第だと思った。
点検を完了して、機体から降りようとした時に、副操縦士が帰ってきて、変化事項を伝えてくれた。それは、機長が気象情報を確認しているということと、特別休暇から帰隊したある軍曹を部隊まで乗せてゆくため、彼女の荷物を積載しなければならないということであった。
私は、その軍曹の荷物を積載し、彼女に搭乗前ブリーフィングを行った。戻ってきた機長からは、天候は良くないが、飛行は可能であり、低空を飛行すれば問題ないと告げられた。帰投経路について、ブリーフィングが行われた。その内容は一般的なものであったが、降雪に関する事項が加えられていた。
離陸すると悪天候の通り道に遭遇し、大量の雪が降り注ぎ始めた。速度を落とした我々は、部隊への帰投を継続すべきか、ボスニアに留まるべきかを議論した。ボスニアに留まりたくなかった我々は、帰投することに決定した。
その日までの過去6ヶ月間、我々は、常に同じクルーで飛行していた。前方支援チーム長でもある我々の機長は、すぐれた指揮官であった。我々は、お互いを熟知し、プロフェッショナルにふさわしいチームワークを発揮して、約250時間にわたる無事故飛行を行ってきていた。我々は、高度を下げ、低空飛行に移行した。
いつもの飛行とは全く異なる15分間になるのは明らかであった。そうこうしているうちに、天候がますます悪化した。前席の一方のパイロットが、「地面が見えない」と言う。もう一方のパイロットと私が「見える」という。そんなことを繰り返す飛行が約45分間続いた。ついに雪が止んだが、それは約20分ほどしか続かず、またしても激しく降り始めた。
我々搭乗員は、その間ずっと、ホワイトアウトなどの発生しうる緊急事態に際して、いかに対応するかを話し合い続けた。約50フィート下の地面には、家や庭、駐車中の車、家畜などが見えた。突然、両方のパイロットが「地面が見えない」と言った。私の心臓は高鳴ったが、私は「地面を確認。見えます!」と答えた。その飛行は、永遠に終わりそうになかった。
航法を担当していた方のパイロットは、機位を地図上でなんとか把握できていた。それから1時間半の間、ほぼ10分ごとに、パイロットのうちの1名または両方が「地面が見えない」と言った。それは、どう控えめに言っても、激しい疲労をもたらす、ストレスの大きな飛行であった。
クロアチアにある我々の基地から約10分のところに到達すると、もうこれで大丈夫だと思った。残念なことに、それは取らぬ狸の皮算用であった。眼前には、高さ100フィートの高圧線があった。機長は、ホバリング上昇して、高圧線を横断できるかどうかを確認しようとした。しかし、それができないと分かると、すぐに降下し、地面に接地した。我々にとって、バルカン半島で着陸するのは初めてのことであった。地雷が埋まっている恐れがあったので、耕地以外には着陸しないように指導されていたのである。
いかにして高圧線を超えるかを話し合った後、パイロットのうちのひとりが、どれかの家の庭に着陸し、高圧線の下を地上滑走して通過することを提案した。我々は、もう一度手順を確認してから、それを実行に移した。高圧線を通過する間、その家に住んでいる家族が、裏口から見物しているのが見えた。通過し終えると、離陸し、基地に向けて再び飛行し始めた。通常であれば15分間の飛行が、2時間半の飛行となった。
エンジンを停止し、ヘルメットを脱ぐと、AAR(after action review, 検討会)を行った。我々の行動が最善のものではなかったことは、誰の眼にも明らかであった。我々の帰巣本能が自らの論理的思考と安全意識を打ち負かしてしまったのである。
教訓事項
我々が搭乗員は、多くの誤りを犯していた。その一方で、正しいことも行っていた。そのうち最も重要なものは、相互に話し合い、状況を確認し合うことであった。この任務の計画・実行に際しては、搭乗員として行うべきことをすべて討議・分析できていた。その日、我々の命を救ったのは、クルー・コーディネーションだったのである。
我々は、すべてのことを正しく実行できたとは言えないものの、パイロットたちは我々を無事に帰投させてくれた。いずれのパイロットも経験が豊富で、特にそのうちの1名は、前方支援チームの指揮官であり、絶大な信頼を受けていた。その一方で、我々は自信過剰だったのかも知れなかった。飛行時間が長くなるに従って、もう基地に帰投できないのではないかと思った。貴官ならば、このような状況に遭遇した場合、どんな結論をだしたであろうか? この事例から学ぶべきことは多い。我々がうまく対応できたのは、単に幸運だっただけなのかも知れないのだ。
出典:Risk Management, U.S. Army Combat Readiness Center 2021年11月
翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人
備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。
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4件のコメント
出来ていなかったことだけでなくできていたことも教訓とするのは、レジリエンスを強化するために大変有意義な観点だと思います。
不安全に陥ることを防止することは大切ですが、不安全を完璧に無くすことはできないのではないかと思います。ヒヤリハット等も事故に至らず回復できたことにも焦点を置いて教訓を積んでいくことが大切だと思います。
コメントありがとうございます。
「レジリエンス」っていう言葉、知りませんでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/レジリエンス_(心理学)
飛行安全を確保するためだけではなく、人生を生き抜くために大事なことですよね。
ちなみに私は「レジリエンス」だけには自信があります。
https://policy-practice.com/db/6_131.pdf
心理学でも着目されていますが、安全工学でも一つのアプローチとして概念化されています。大まかな意味は心理学と同じですが、予想しきれないような事態に対応するために必要な概念なのだと思います。
おっと。ここでまた「Safety-I」と「Safety-II」という言葉に出会うとは思っていませんでした。
実は、ある方の勧めでErik Hollnagal氏の「Safety-I and Safety-II」を買って持っています。(まだ、ほどんど読めていませんが...)
これからの安全管理を語る上で、欠かせない概念になっているようですね。