死んでしまっては任務を遂行できない
航空一家で育った私は、「冗談じゃなくて本当だぞ。ヒューイ(UH-1)で逆さまになったんだ。顔に勲章が垂れ下がって、初めて分かったのさ」という父の話を聞かされて育ちました。経験のない私は、そんな父の話をただ笑って聞くだけでした。それから数年後、フォート・ドラム(ニューヨーク州)まで帰投する4機編隊での飛行に参加していた私は、IIMC(予期せぬ天候急変等による計器飛行状態)に陥ってしまいました。逆さまになっているのに気づかない状態を実感することになったのです。
私の所属する部隊は、ルイジアナ州フォート・ポークにある統合即応訓練センター(JRTC)で行われるマウンテン・ピーク演習を支援するように命ぜられていました。部隊が所在するフォート・ドラムからの長距離飛行を命ぜられるのは、なぜかいつも1年の間で最悪の時期です。その時期に五大湖のうちの2つを通過すると、これ以上ないくらいの酷い天候に見舞われるものです。前回のJRTC(統合即応訓練センター)での訓練では、悪天候に向かって飛行するように命ぜられた結果、ペンシルベニア州のエリーで2日間も足止めを食らい、機体が氷に覆われてしまいました。今回の飛行任務では、飛行の決心に自主裁量の余地が与えられ、天候による危険を自分たちの判断で回避できるように考慮されていました。悪天候が数日間続いた後、ようやく飛行できる日がやってきました。
この飛行任務の空中部隊指揮官(AMC)は部隊長でした。しかし、飛行開始前に隊長機のAH-64に整備上の問題が発生してしまいました。予備の空中部隊指揮官であった私は、編隊を指揮して、移動を開始するように命ぜられました。空中部隊指揮官は、後から我々に追いつく予定でした。その時点での編隊は、2機のAH-64D(長機と2番機である私の機体)と、整備器材を搭載した1機のUH-60Mで構成されていました。編隊は問題なく離陸し、南に向かって移動を開始しました。
ウィーラー・サック陸軍飛行場の南約15分のところに、タグ・ヒルと呼ばれる起伏のある地形があります。誰もがそこを厄介な場所だと思っていました。ただし、この障害は最初のものではありますが、唯一のものではありませんでした。離陸するとすぐに見える巨大な湖が存在していたからです。その両方を無事に通過し、西への旋回を開始したとき、悪天候に遭遇しました。他の2機の機長と私は、前方の荒天域を通過するのは不可能だと直ちに判断しました。空中部隊指揮官であった私は、悪天候から逃げられない状態に陥る前に引き返すことを決めました。
約45分後、我々は飛行場に着陸し、翌日に再挑戦する態勢を整えることになりました。その時点では気づいていませんでしたが、私の最初の過ちは、問題となる地形を通過しなければならないことを分かっていながら、シーリング1000フィート・視程3マイルの離陸基準(1000/3 launch criteria)を考慮しなかったことでした。
2回目の試みでは、空中部隊指揮官機を含む4機すべての航空機が離陸し、私は長機の機長として飛行することになりました。タグ・ヒルを通過し、オンタリオ湖の南部に到達すると西に向かって旋回を始めました。その約5分後、飛行経路上で予報外の天候に遭遇しました。弱い雨が降りはじめ、飛行高度である平均海面高度(MSL)約1,400フィートには雲層が散在していました。視界が急速に妨げられ、2番機は私の機体を見失い始めました。
荒天域から外れたところにある空港の付近で、編隊の再編成を開始しました。ここで私は2つ目の過ちを犯していたようです。「直ちに帰投すべきだ」と言わなかったのです。今度は空中部隊指揮官でなかった私は、その判断を部隊長に委ねてしまいました。西の方向に晴れ間が見えるようになったので、編隊の再編成を短時間で完了し、予定されていた経路の飛行を再開しました。
西に向かってわずか5分ほど進んだところで、先ほど通過した荒天域に入りました。状況はさらに悪化していました。誰もが氷結の可能性を懸念し始めました。シーリングも急速に低下し、これ以上進むことは危険なのが明らかでした。
先に述べたとおり、私たちは五大湖のうちの2つを通過しなければなりませんでした。最初に天候の問題を引き起こしたオンタリオ湖の南を通過して西に飛行すると、今度はエリー湖に向かって進むことになります。その荒天域はレーダーで確認できなかったので、2回目の飛行においても、それが近づいていることに気づけなかったのです。結局、天候が十分に回復するまで小さな飛行場に着陸して待機することになりました。その後、ニューヨーク州シラキュースまで飛行し、給油と飛行計画の検討を行いました。
給油中に機長の1人がフォート・ドラムに電話をして、気象予報官と話をしました。ウィーラー・サックまで戻る間の経路は晴れていましたが、1時間半以内にタグヒル付近で一時的な悪天候が予想されるという予報でした。フォート・ドラムまでの飛行時間は約45分なので、速やかに離陸すれば、荒天を避けられると判断しました。これがおそらく3つ目の過ちであり、最終的には全ての出来事の鍵となる要因となりました。
フォート・ドラムの司令部に報告した部隊長は、飛行の可否についての判断を委ねられました。帰投するのであれば、直ちに離陸すべきでした。搭乗員全員が急いで機体に向かいました。機体に乗り込もうとしたとき、離陸前に機体から氷を取り除く必要があることに気づきました。これによって約30分の遅れが生じ、貴重な時間が奪われてしまいました。
シラキュースを離陸した時点では、天候はシーリング1000フィート・視程3マイルの基準をわずかに上回っていました。飛行を続けるにつれ、天候は大幅に改善しました。シーリングは約4,000フィートまで回復し、視界は7マイルを余裕で超えていました。すべてが良好に見えました。しかし、すぐにそうではなくなりました。タグヒルに近づくにつれ、悪天候の帯が予想よりも速く移動しているのが分かりました。これが私の最後の過ち、4つ目の過ちとなりました。その時点で引き返すべきだったのです。規則上はまだ問題のないレベルでしたが、天候の帯がどれだけ早く形成されるかは予測できませんでした。
私は操縦を副操縦士に任せ、他のすべてに集中できるようにしました。軽い吹雪に入りましたが、それほど状況は悪くありませんでした。ところが、4秒ほどの間に視界が急激に低下し、IIMC(予期せぬ天候急変等による計器飛行状態)に入りました。前席の私がその状況をコールアウトすると同時に、後席の副操縦士も同じ状況をコールアウトしました。驚いた副操縦士は、機首を約30度上げて右旋回を始めました。私は直ちに操縦を交代し、水平飛行に戻してホールド・モードを設定しました。後続の3機は、この天候の帯に入らないように旋回し始めました。IMCに入ってから約10秒後、雲の反対側に出ることができ、視界が回復しました。
ただし、後続の航空機はまだ、別の場所からの通過を試みようとしていました。この飛行の全体を通じての最大の過ちは、誰も「やめろ! 戻れ!」と言わなかったことでした。UH-60Mは計器飛行方式の許可を申請して通過しました。2機のAH-64は3回の試みを繰り返した後、隙間を見つけて通過することができました。幸運なことに、全員が無事に帰投できました。
教訓
記事の途中に書いた、この飛行中に私が犯した過ちは、重要な教訓を提供しています。たとえ空中部隊指揮官でなくても、黙っているべきではありません。コールアウトしてください! 編隊を構成している全員が死なない権利を平等に持っているのです。黙ったまま危険な状況に向かって突き進み、航空機を地面に激突させてしまっては、任務を遂行することはできません。また、経費節減のために帰投するように命令されたからといって、危険な状況に追い込まれるべきではありません。私たちの部隊長は、以前の部隊である民間飛行場に滞在した際に、上司から叱責された経験があったようです。覚えておいてください。 天候回復まで滞在した理由を説明するのは、飛行を続行して墜落した理由を説明するよりもずっと簡単なことなのですから。
出典:Risk Management, U.S. Army Combat Readiness Center 2025年01月
翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人
備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。
アクセス回数:126