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陸軍航空の情報センター

陸軍航空殿堂: ハミルトン・ホーキンス・ハウズ将軍

マーク・アルバートソン

ハミルトン・ハウズは、1908年12月21日にニューヨーク州ウエスト・ポイントで、アメリカ陸軍士官学校長ロバート・リー・ハウズの息子として生まれた(*1) 。 兄弟にロバート・リー・ハウズ・ジュニア少将がいる。ハミルトン・ハウズは、1930年にウエスト・ポイントを卒業した。その後、テキサス州フォートブリスの第7騎兵隊に少尉として配属され、35年間の陸軍キャリアを歩み始めた。第2次世界大戦中の1943年には、北アフリカの第1機甲師団に配属され、その後1943年から1945年までイタリアで勤務した。

戦後は、1948年に国防大学に入学し、その後1949年から1952年まで国防総省情報部(G-2)に配属された。著書によれば、それは人生で最も悲惨な3年間であったとされる(*2)。1952年に准将に昇任し、ヨーロッパ第2機甲師団の副司令官に就任した。

ジェームズ・M・ギャビン将軍に影響を受けたハウズは、将来の部隊移動は空中、つまり軽固定翼機またはヘリコプターによって行われるようになると考えていた。特にヘリコプターは、韓国においてその地位を確立していた。カール・フォン・クラウゼヴィッツの熱心な信奉者であったハウズが、空中機動の推進者になったのは自然な流れであった。

「戦争(第2次世界大戦)中、私は、クラウゼヴィッツ伯爵の『戦いの原則』という赤い表紙の非常に薄い本をジープの後部座席に載せていた。そして、何度も読み返した。」「軍事的才能に溢れた著者による簡明かつ古典的な文章は、ストレスに押しつぶされそうな自分に大いなる力を与えてくれた。」

「この本は、どれほど熟慮された戦闘作戦においても困難はつきものであるが、問題の発生や作戦の遅延に備えた周到な計画を立案し、必要な手段を講じておけば、任務を完遂できることを確信させてくれる力強い味方であった(*3)。」

ギャビン中将の尽力により(*4)、ハウズは1955年から1958年まで陸軍省陸軍航空部の初代部長を務めた。それは、ハウズの知的能力だけでなく、家柄の良さの点からも適切な人選であった。この両方が、陸軍航空に正当性を与え、その存続を確実にするために必要な信頼性をもたらしていた。

1960年、ハウズはロジャーズ委員会の一員となった。この委員会の目的は、進行中の空中機動革命に航空機製造会社を参加させることにあった。1962年には、戦術機動要求事項委員会(通称「ハウズ委員会」)の議長となり、第11空中機動師団(試行)の創設を決定した。戦場における機動力革命は、1918年の戦車に引き続き、空を舞台として実行されようとしていた。アメリカ陸軍の場合、そのきっかけとなったのは、ヘリコプターだったのである。

ハウズは、その後、キューバ危機の際に第18空挺軍団の司令官を務めた。最終職務は、1963年から1965年までの間、第8米軍司令官および国連軍/在韓米軍の最高司令官(陸軍大将)であった(*5)。

1965年に退役したハウズは、テキサス州のフォート・フッドに移動した後、1998年12月8日に死去した。アメリカ陸軍航空の殿堂入りを果たしたのは、1974年のことであった。

脚注
1 – ロバート・リー・ハウズは、1888年にウエスト・ポイントを卒業し、最終配属部隊であるサウスダコタ州の第6騎兵隊でのスー族に対する作戦行動に対し名誉勲章が授与された。
2 – ハミルトン・H・ハウズ著『騎兵の物語』第13章「ペンタゴン」150 ページを参照
3 – 同129ページを参照
4 – 同179ページを参照
5 – 同上265ページを参照

マーク・アルバートソンは、受賞歴のある陸軍航空出版歴史家であり、ARMY AVIATION誌の寄稿者である。

                               

出典:ARMY AVIATION, Army Aviation Association of America 2024年07月

翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人

備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。

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