ドッグ・タグ(認識票)の歴史
その慣習と愛称の始まり
ドッグ・タグを知らない者はいないであろう。兵士たちが戦場で自分自身の識別のために身に着ける、チェーンで結ばれた小さな楕円形の板だ。しかし、これを装着する慣習がいつ、どうして始まり、なぜドッグ・タグと呼ばれるようになったのかを考えたことがあるだろうか?
その答えを見い出すためには、過去の歴史を調査する必要があった。
ドッグ・タグという愛称の起源
陸軍歴史財団(Army Historical Foundation)によれば、「ドッグ・タグ」という言葉を最初に使ったのは、新聞界の大物であったウィリアム・ランドルフ・ハーストであった。1936年当時、ハーストは、フランクリン・D・ルーズベルト大統領のニュー・ディール政策に反対していた。その頃、新たに設立された社会保障局は、個人を識別するためにネームプレートの配布を検討していた。ハーストは、そのネームプレートのことを「ドッグ・タグ」と呼んだのである。その後、軍隊で使用される同じようなプレートも同じ名前で呼ばれるようになったという。
別の説には、第2次世界大戦の召集兵たちが、自分たちが犬のように扱われていることを表現するために、「ドッグ・タグ」と呼んだのが始まりだ、というものもある。また、犬の首輪についている金属製のタグに似ていたからだというものもある。
このうちのどれがこの愛称の本当の起源なのかは分からない。しかし、認識票というものが「ドッグ・タグ」というこの愛称が生まれるよりもずっと前から存在していたのは、間違いない。
南北戦争における認識票の誕生
認識票は、公式なものではないものの、既に南北戦争の時に生まれていた。自分が死んだときに、誰なのか識別されずに無名の墓に葬られるのを恐れた兵士たちは、それを防ぐためにさまざまな方法を考え出したのである。衣服にテンプレートを使って名前を書き込んだり、紙製のタグをピン止めしたりする者もいた。古いコインや、円形の鉛または銅の板を用いる者もいた。海兵隊においては、木片に名前を刻んで、首の周りにぶら下げる者もいた。
金銭的に余裕のある者の中には、従軍している民間業者たちから名前が刻まれた金属製のタグを購入する者もいた。1862年には、ニュー・ヨーク出身のジョン・ケネディが、名前が刻まれた円盤を何千枚も製造することを提案した。しかし、陸軍省は、この提案の採用を見送った。
南北戦争が終結するまでの間に、識別が不能だった北軍の戦死者は、全体の40%以上にのぼった。米国で最大の北軍墓地であるヴィックスバーグ国立墓地には17,000人以上の軍人が埋葬されたが、そのうち13,000人近くの墓には「氏名不詳」と記載されている。
身元確認に関する兵士たちの心配が現実のものとなったことにより、認識票を着用する習慣がますます定着した。
公式な認識票の誕生
認識票の装着についての公式な提案が初めて行われたのは、米西戦争が終結した1899年のことであった。陸軍大尉チャールズ・C・ピアース(フィリピン陸軍遺体安置所および身元確認局所属)が、重傷者および戦死者の識別を容易にするため、円形の金属板を支給することを提案したのである。
それから数年後の1906年12月、陸軍は、アルミ製の円盤で作られた認識票を装着することを隊員に義務付けた。50セント硬貨と同じくらいの大きさの認識票には、兵士の氏名、階級、中隊および連隊または軍団が印字されていた。それは、紐やチェーンに取り付けて、戦闘服の下に、首にかけて装着することになった。
1916年7月には、2枚目の認識票が、1枚目から短い紐またはチェーンでぶら下げられるようになった。そのうえで、1枚目は遺体に残され、2枚目は埋葬記録として保管されることとされた。なお、認識票が支給されるのは兵士だけであり、将校は自分で購入しなければならなかった。
海軍において認識票の着用が義務付けられたのは、1917年5月のことであった。これ以降、アメリカのすべての戦闘中の部隊において、認識票の着用が義務付けられることとなった。認識票の寸法や規格が制定され、各人の認識番号が記載されるようになった。第1次世界大戦中のヨーロッパへの「アメリカ外征軍(American Expeditionary Forces)」の派遣に際しては、宗教識別記号(C:カソリック、H:ユダヤ教、P:プロテスタント)も記載されるようになったが、派遣終了後には取りやめられた。
陸軍と海軍の違い
第1次世界大戦中の海軍の認識票は、陸軍のものとは少し違っていた。ニッケル合金の一種であるモネルメタルで作られ、「U.S.N(アメリカ海軍)」の文字が刻印されていた。その刻印は、エッチングというインク、熱および硝酸などを用いた特別な工程によって行われ、兵士の場合は誕生日および入隊年月日が、士官の場合は任官年月日が記載されていた。しかしながら、最も大きな違いは、改ざんや取り違えなどを防止するため、右手人差し指の指紋が裏側に印刷されていたことであった。
海軍歴史センター (Naval History and Heritage Command)によれば、海軍は、第1次世界大戦の終わりから第2次世界大戦が始まるまで間、認識票の使用を中断した。1941年5月に使用を再開したが、文字の刻印は、それまでのエッチングではなく、機械によって行われるようになった。
海兵隊は、1916年の終わりから認識票の着用を義務付けていたが、陸軍型の認識票と海軍型の認識票が混在して用いられていた。
第2次世界大戦における認識票
第2次世界大戦が始まる頃には、認識票が制服の一部として公式に認められ、ニッケル銅合金製の丸みのある長方形という、今日と同じようなものが使われるようになった。
それぞれの認識票には、氏名、階級、認識番号、血液型および宗教(希望な場合)が機械で刻印されていた。開戦直後は、緊急連絡先も記載されていたが、終戦後には削除された。また、破傷風のワクチン接種を終了した者には、「T」の記号が記載されていたが、こちらも1950年代には削除された。
第2次世界大戦中には、海軍の認識票にも指紋が印刷されなくなった。終戦までには、陸軍では数十年前から採用されていた2つ目のチェーンが、海軍においても使用されるようになった。
この頃、アメリカ全軍の認識票には、一方の端に切り込みがあった。歴史家によれば、それは刻印に用いていた機械の都合により必要だったとされる。1970年代に機械が更新されたため、今日の認識票には切込みがないものが用いられている。
現在の認識票
戦死した際に2つの認識票を一緒に保管するか、別々に保管するかは、たびたび変更されてきた。1959年には、2つの認識票を両方とも遺体と一緒に保存するように変更された。しかしながら、ベトナム戦争が始まると、1枚の認識票を取り外し、1枚を遺体に残すという従来の手順に戻された。
海兵隊においては、防護マスクのサイズまでが認識票に記載されていた。
1969年には、陸軍が認識番号から社会保険番号への移行を開始した。この方式は45年間に渡って続いたが、2015年に社会保険番号から国防省認識番号への変更が開始された。これは、兵士たちの個人情報を保護し、情報漏洩を防止するための措置である。
ベトナム戦争以降は、DNAの活用など、遺体の識別に関する技術は目覚ましく発達してきた。にもかかわらず、今日においても、軍人へのドッグ・タグの支給は継続されている。認識票は、すべての軍人、特に究極の犠牲を払った軍人に対するアメリカ国家としての敬意の証なのである。
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1件のコメント
認識票は、死ぬことが当たり前の職業に就いた者だけに与えられる勲章なのかも知れません。