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陸軍航空の情報センター

55年前のイア・ドラン渓谷の戦い(前半)

LZエックスレイ

マーク・アルバートソン

LZエックスレイを低空飛行する第229強襲ヘリコプター大隊長ブルース・クランデル少佐のヘリコプター

編集者注:これは、ベトナムのイア・ドラン渓谷の戦いの55周年を記念する連載記事(2回)の最初の記事です。

第1騎兵師団(航空)が攻撃を開始したのは、55年前のことであった。師団長のハリー・W・O・キナード少将は、第1騎兵師団第3旅団司令官のトーマス・W・ブラウン大佐に、チュポン山脈のイア・ドラン川南側への部隊投入を下令したのである。第3旅団は、第7騎兵連隊第1大隊および第2大隊、ならびに第5騎兵連隊第2大隊で編成されていた。LZファルコンの6~7マイル東には、105mm榴弾砲を装備した2個大隊が火力支援のため配置されることになっていた。ハロルド・G・ムーア中佐に率いられた第7騎兵連隊第1大隊は、11月14日1030、LZエックスレイにヘリコプターでの降着を開始した。この作戦の目的は、イア・ドラン渓谷における索敵および撃破作戦の実施であった(注1)。

1965年11月14~15日にかけて行われたLAエックスレイの戦いにおいて、電話通話を行うハロルド・G・ムーア中佐

ブラボー中隊のLZエックスレイへの投入には、16機のヘリコプターが用いられた。LZエックスレイは、一度に8〜10機のヘリコプターが着陸できる広さを有していた。計画では、ブラボー中隊の降着後30分以内に、アルファ、チャーリーおよびデルタ中隊が同じくヘリコプターで降着することになっていた。

「降着後、アルファ中隊とブラボー中隊は、降着地域の北および北東区域で攻撃態勢を整え、アルファ中隊を右翼に並列して東および北東方向に向けて索敵を開始する。チャーリー中隊は、当初予備、降着地域西側からチューポン山脈のすそ野に向けた西および北西方向への索敵機動を準備しつつ、ブラボー中隊の警戒を担任する。火力優先は、当初、ブラボー中隊、じ後、降着地域から西方への機動が開始にともないアルファ中隊とする。(注2)」

戦闘の推移

イア・ドラン渓谷の戦い(1965年11月14~20日)LZエックスレイは、地図の中央部

11月14日から15日にかけての戦闘を通じて証明されたのは、UH-1ヒューイ・ヘリコプターが非常に貴重な存在だということであった。ムーア中佐が率いる騎兵隊員を空輸したのは、クランデル少佐が指揮する第229強襲ヘリコプター大隊であった。4回目の降着を実施中、チュー・フイ・マン将軍が率いる北ベトナム人民軍は、LAエックスレイへの砲撃を開始した。砲撃は、次第にその強度を増し、騎兵隊員たちは、雨のように降り注ぐ60mmおよび81mm迫撃砲弾にさらされることになった。1330、ブラボー中隊は、ロケット弾および迫撃砲に支援された北ベトナム人民軍の2個中隊からの激しい攻撃を受け、その右翼小隊は、分断の危機に面していた(注3)。アルファ中隊は、激しい攻撃を受けているブラボー中隊の左翼を防護することによって、ブラボー中隊が右翼小隊の包囲を回避できるように援助した(注4)。また、野戦砲およびロケット砲部隊は、チューポン丘陵地帯および敵侵入ルートへの砲撃を開始した(注5)。

ブラボー中隊が激しい戦闘を繰り広げる中、チャーリー中隊は、銃弾の飛び交う降着地域への進入を開始した。「チャーリー中隊の最終部隊が降着するやいなや、デルタ中隊の先頭部隊の降着が始まった。ヘリコプターは、着陸間に多数被弾したが、撃墜されたものはなかった。(注6)」ただし、「ヘリコプターから降機する前に無線通信士1人が死亡し、ドア・ガナーとパイロットが負傷した。これを受け、ムーア大佐は、じ後に予定されていた8機のUH-1Dの降着を中止した。降着したデルタ中隊は、アルファ中隊の近傍で火力戦闘に加入した。戦闘は、ますます激しさを増した。ムーア大佐は、強力な支援火力および発煙による掩護の下、アルファ中隊とブラボー中隊を降着地域まで後退させ、防護態勢を確立して、夜間の戦闘に備えることに決した。(注7)」

戦闘の継続

クランデル少佐は、必要な物資を供給し、負傷者を回収し、増援を投入するため、ヘリコプターによる戦闘支援の継続を申し出た。「ヘリコプターによる戦闘支援は一晩中継続して実施された。また、空軍機による戦闘地域の照明支援も継続的に行われた。パイロット達は、増援の投入、再補給の実施、ならびに負傷者および死者の回収のため、危険を顧みず、敵火にさらされた降着地域への進入を続けた。(注8)」日が暮れると、「失われた小隊」との連携が困難になり、かろうじて通信だけが確保される状況となった。また、北ベトナム人民軍による、ムーア大佐への包囲攻撃が開始された。騎兵隊員たちは、孤立した小隊やエックスレイに対する攻撃の撃退に成功した。この作戦には、LZファルコンに位置するカノン砲大隊も協力した。この近接火力支援に使用された砲弾数は、4,000発を超えた。(後半に続く)

注1 – See page 78, Chapter IV, “The First Airmobile Division and the Buildup, 1965: The Ia Drang,” Vietnam Studies: Air Mobility, 1961-1971, Lieutenant General John J. Tolson.
注2 – See pages 7 and 8, “Ia Drang Valley Campaign Oct.- Nov.1965,” by MSG Erik Wilson, MSG Jeff Noe, MSG June Pugh, MSG James Wells and MSG Shannon Boyer.
注3 – See page 26, “Battle of LZ X-Ray,” by Captain Robert H. Edwards.
注4 – See page 5, “After Action Report, Ia Drang Valley Operation, 1st Battalion, 7th Cavalry, 14-15 November 1965,” Commanding Officer, 3rd Brigade, 1st Cavalry Division (Airmobile).
注5 – ibid page 6
注6 – ibid page 7
注7 – See page 78, Tolson.
注8 – See page 141, “14 November, 1. Operations Summary, Operations Report, Lessons Learned, Report 3-66, The Pleiku Campaign.”The reference to MAJ Bruce Crandall asking for volunteers to maintain that lifeline of supply and reinforcements was in response to LTC Moore closing down the landing zone so as to prevent Army Aviators from incurring heavy losses which would threaten the continuing operation of the lifeline. This can be found on page 128, “Landing Zone (LZ) X-Ray –desperate times, conspicuous heroism,” A History of Army Aviation, by Dr. James W. Williams.
For greater detail on MAJ Crandall asking for volunteers to continue flying into LZ X-Ray, go to page 117, Chapter 9, “Brave Aviators,” We Were Soldiers Once . . . And Young, by LTG Harold G. Moore (Ret.) and Joseph L. Galloway. In addition, refer to pages 114 and 115, explaining how “slick crews,” those trained to fly in troops and supplies were also ferrying wounded. Transportation of wounded was the province of MEDEVAC; but, at this stage of the war, MEDEVAC commanders were denying their aviators and helicopters from landing in hot zones. Again, refer to Williams, page 128, as well with regards to commitment of MEDEVAC: “Casualties mounted quickly. The need for MEDEVAC was urgent, but the recent experience of losing these helicopters came into play. The unit called for MEDEVAC, but the new division policy for MEDEVAC required a cold LZ for five minutes. That was impossible. This left the lift unit to carry out wounded.”
Finally, we see Moore faced the prospect that without preserving Landing Zone X-Ray, he faced defeat.

マーク・アルバートソンは、受賞歴のある陸軍航空出版歴史家であり、ARMY AVIATION誌の寄稿者である。

                               

出典:ARMY AVIATION, Army Aviation Association of America 2020年11月

翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人

備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。

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