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陸軍航空の情報センター


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55年前のイア・ドラン渓谷の戦い(後半)

LZエクスレイ

マーク・アルバートソン

編集者注:これは、ベトナムのイア・ドラン渓谷の戦いの55周年を記念する連載記事(2回)の後半です。前半の記事は、2020年11月30日号に掲載されています。

1965年11月14日:

クランドル少佐は、必要な物資の供給、負傷者の回収および増援の投入のため、ヘリコプターによる戦闘支援の継続を要求した。「ヘリコプターによる戦闘支援は一晩中継続して実施された。また、空軍の照明機による戦闘地域の照明支援も継続された。ヘリコプターのパイロット達は、増援の投入、追送品の空輸、および死傷者の回収のため、危険を顧みず、敵火にさらされている降着地域への進入を繰り返した」(注1)

1800、ムーア中佐からの増援要請を受けた第7騎兵連隊第2大隊B中隊がLZに降着した。体力・気力の充実した騎兵隊員たちが、夜間の戦闘陣地に配置された。

1965年11月15日:

0650、C中隊の戦闘陣地に対し、北ベトナム人民軍の複数の中隊による攻撃が開始された。0715にはD中隊、続いて0800にはA中隊に対する攻撃も開始された。チュー・フイ・マン将軍は、この孤立地域の掃討を企図していると見積もられた。もし、そのとおりになったならば、アメリカ政府は批判の的になり、南ベトナム政府の衰退が避けられなかったことであろう。ムーア中佐は、極めて重要な局面に立たされていた(注2)。

D中隊は、砲兵および爆撃機の支援を受け、北ベトナム人民軍の強襲を阻止した。第7騎兵連隊第2大隊B中隊は、C中隊を増援するため、その前夜にヘリコプターで投入されていた。控置されていた第7騎兵連隊第2大隊A中隊は、早朝からLZエクスレイに対する攻撃を行ったため、空中機動による投入が遅れていた。孤立地域を掃討しようというマン将軍の企図を粉砕するためには、爆撃機および砲兵による支援が必要不可欠であった。0900、LZが確保されると、A中隊の降着が開始された。

1200、LZビクターから徒歩で移動していた第5騎兵連隊第2大隊C中隊が、LXエクスレイに到着した。1315、AおよびC中隊は、包囲された小隊を救援すべく、攻撃を開始した。その救援作戦は、1510に完了した(注3)。 孤立地域の奪還に成功したムーア中佐たちは、次の夜間攻撃に備え、戦闘陣地の防御力の強化を開始した(注4)。

夜になると、第228強襲支援ヘリコプター大隊のCH-47チヌークが、ファルコンおよびコロンバスへの補給を継続し、砲弾の備蓄を確保した。クランダルから派遣された第229空中攻撃大隊のUH-1Dは、LZエクスレイへの飛行を繰り返し、兵員・物資の空輸および負傷者を回収を行った。空軍の戦闘爆撃機は、ムーア中佐たちがいる孤立地域を支援するため、常に即応性を維持し、「作戦間、平均15分に1回の頻度で目標に対する戦闘爆撃を行った」(注5)

「砲兵部隊は、6,000発以上の榴弾を防御地域の周辺に向けて発射し、対地攻撃機は、2,000発近くのロケット弾を発射して弾幕を形成した」(注6)

「0400頃、敵による第7騎兵連隊第2大隊B中隊への偵察行動が開始された。0422、B中隊が250~300人の敵勢力による攻撃を受け始めた…」

「攻撃方向は南東からであった…空軍の照明機による照明が要求され、0545時間まで継続的に実施された。B中隊は、小火器の射撃および砲兵部隊の支援により、敵の攻撃を阻止した。0431、200人の敵によるB中隊への新たな攻撃が開始された…敵兵は、照明弾が点灯されるたびに、地面や草木の上に倒れていった。砲兵部隊は、大きな戦果を上げた。その射撃支援は、4コ砲兵大隊により実施された。北ベトナム人民軍が多数の遺体を引きずり下ろしているのが確認された。0503、敵は攻撃の重点を南西方向に転換し、約100人をもって攻撃を開始した。0535、この攻撃の阻止に成功した。0550、照明機が照明弾を使い果たした。その後は、砲兵部隊の照明弾が代わりに用いられた。第5騎兵連隊および第7騎兵連隊の双方の大隊は、攻撃開始以降、迫撃砲による榴弾の射撃を継続していた。0641、敵は、銃弾が飛び交う中、負傷者の救助を行っていた。B中隊は、その目覚ましい成果にもかかわらず、わずか6名の軽症者しかだしていなかった。」(注7)

ムーア中佐は、直ちに反撃を開始した。戦闘地域の前縁に沿って配置されていた騎兵隊員たちは、小火器および自動火器を携行し、隊形を整え、戦闘陣地の前縁から500メートルまでの間の掃討を行った。しかし、第7騎兵連隊第2大隊B中隊が敵火にさらされ、その陣前出撃は、中断を余儀なくされた。すべての部隊が、戦闘地域の前縁まで後退した。再び形勢を逆転させたのは、戦闘爆撃機による航空攻撃と野戦砲による砲撃であった。騎兵隊員たちは、再び掃討を開始した。この攻撃により、戦況が安定すると、第7騎兵連隊第2大隊の残余の中隊が空中機動により投入され、第7騎兵連隊第1大隊はヘリコプターで離脱した。

しかしながら、プレイクの戦いにおけるLZエクスレイでの戦闘は、これで終わりではなかった。

11月17日:

第7騎兵連隊第2大隊は、LZエクスレイの数マイル北にあるLZアルバニーで北ベトナム軍と戦闘状態に入った。マン将軍がその地域から部隊を撤退させている間、第7騎兵連隊隊は、空中機動能力を発揮して敵部隊を追跡し、敵を撃破し、または降伏させた。短時間ではあったにもかかわらず、激しい戦闘により、403名の北ベトナム人民軍兵士と151名のアメリカ軍兵士が戦死した。

北ベトナム人民軍は、カンボジア国境に向けて撤退を続けた。戦術爆撃とB-52による爆撃は、イア・ドラン渓谷から撤退するマン将軍たちにさらなる損害を与えた。

11月14日から16日にかけてのLZエクスレイにおけるアメリカ騎兵隊員の死傷者は、死者79人、負傷者121人であった。これに対し、北ベトナム人民軍の損失は、死者634人、負傷者1,215人、捕虜6人であった。ヘリコプターによる空中移動は、十分に訓練された正規軍の兵士たちが、あたかも武装勢力のように軽快に行動して敵の背後をつき、適時に離脱することを可能にした。孫子が言うとおり、「軍事作戦の本質は、自らの兵力を保存し、敵をせん滅させることであり、この目的を達成するためには、受動的かつ硬直的な戦法を回避すること」が必要でなのある(注8)。イア・ドラン渓谷の戦いは、ヘリコプターによる空中機動が、自らの安全を確保しつつ、柔軟な運用を可能とする戦法であることを証明した。後に、ムーア中佐は、次のように語っている。「我々を支援するために敵火を潜り抜けながら飛行を繰り返してくれたUH-1Dのパイロットや搭乗員の卓越したプロ意識と勇気に対し、最高の称賛と敬意を表する。

常に積極的に任務を遂行し、忠実に命令に従い、作戦の成功に多大の貢献をしてくれたことに感謝している」

注1 – See page 141, “14 November, 1. Operations Summary, Operations Report, Lessons Learned, Report 3-66, The Pleiku Campaign.”

注2 – The plight of Task Force Smith at Osan, Korea, July 5, 1950, offers a case in point. Many in LTC Charles Bard Smith’s unit were halftrained, unprepared “soldiers” pitted against an army, North Koreans, many of whom had a rich combat experience fighting with Mao Tse- Tung during World War II in China against the invading Japanese and Chiang Kai-shek’s Nationalist armies. LTC Harold Moore was not saddled with a unit of half-trained conscripts; in addition to being better supplied and equipped. But make no mistake of the political consequences that could have resulted if General Man had won the encounter at X-Ray. To which must be added the expected Air Force criticism of the Army’s doctrine of Airmobility.

注3 – See page 15, VI. The Relief of the Surrounded 2nd Platoon, Company B, and the Redisposition of the Perimeter, “After Action Report, 7th Cavalry, 14-16 November 1965,” Headquarters, 1st Battalion, 7th Cavalry, 1st Cavalry Division (Airmobile).

注4 – See pages 30 and 31, “The Battle of X-Ray,” by Captain Robert H. Edwards.

注5 – See page 151, “15 November, 1. Operations Summary, Operations Report, Lessons Learned, Report, 3-66.”

注6 – See page 151, ibid.

注7 – See page 16, VII, Enemy Night Attack, 0400-0630 Hours, 16 Nov., “After Action Report, Ia Drang Valley Operation, 1st Battalion, 7th Cavalry, 14-16 November 1965,” Headquarters, 1st Battalion, 7th Cavalry, 1st Cavalry Division (Airmobile).

注8 – See page 51, Chapter VI, “Sun Tzu and Mao Tse-Tung,” The Art of War, by Sun Tzu.

マーク・アルバートソンは、受賞歴のある陸軍航空出版歴史家であり、ARMY AVIATION誌の寄稿者である。

                               

出典:ARMY AVIATION, Army Aviation Association of America 2020年12月

翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人

備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。

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