歴史を振り返る:ミサイル被弾からの生還
ARMY AVIATION Magazine(コネチカット州ウェストポート)1973年6月30日号、17ページより

その攻撃の際、私の部隊はアンロクの南、国道13号線沿いのタンカイ村付近で、南ベトナム軍空挺旅団を支援する任務に就いていました。私達の部隊のコブラは、再展開のために南ベトナム軍空挺旅団を撤退させる任務を負ったアメリカ軍の「スリック」部隊を護衛していました。この作戦を支援するため、3機のAH-1Gコブラで構成される重火力チームが編成され、その3番機の機長を私が務めていました。そのチームの支援要領は、1番機が低高度を飛行して空輸編隊を同行援護し、2番機と3番機が高高度を飛行して地域制圧を行うというものでした。高高度を飛行する2機は、「2番機」と「3番機」でした。
私は、右に進路を変更して国道13号線を南東から南西へと航過しながら目標地域への2回目の制圧射撃を行いました。2番機と高高度で合流し、僚機の位置につこうとしていた時、SA-7ストレラ・ミサイルが発射されました。私の知る限り、それまでSA-7ミサイル攻撃を受けて生還したヘリコプターはありませんでした。
助けられたのは、他の航空機がミサイル発射を発見してくれたことでした。彼らはVHF無線で「ミサイル、ミサイル、ミサイル!」と叫びました。
それを聞いた私が振り返ると、左肩越しにミサイルの軌跡が見えました。こちらに向かって飛んで来るのが分かったと同時に、機体に命中しました。すぐにスロットルを絞り、コレクティブ・ピッチを最低まで下げました。
ミサイルに被弾したことで、テール・ブームが後部バッテリー区画付近で完全に切断されました。コブラの場合、この部分はエンジン排気口の真下にあたります。機体は上下左右に揺れ動きました。オートローテーションに入ると、マストを中心に右回りにスピンし始めましたが、機首下げ姿勢から回復させることができました。
その後は、マストを中心にゆっくりとスピンしながら、スパイラル状に降下してゆきました。そのスピン速度は、通常のペダル・ターンを行った場合とほぼ同じでした。
SA-7が命中した直後に、すべての無線通信機能が失われました。ただし、機内通話は可能でした。私は、それを使って、前席のパイロットに両舷の武器システムを緊急投棄するように指示しました。その試みは成功しませんでした。
降下中に行った操縦操作はごくわずかでした。テール・ブームがない状態での最大の問題は重心でした。地面に向かって降下しながら、サイクリックを左右に操作してみましたが、ほとんど効果が得られませんでした。同じような不運に見舞われた人は、サイクリックを後方に完全に引くことだけに集中すべきです。唯一の懸念事項は重心だからです。
コレクティブは、ピッチ最低まで下げた状態を維持しました。ローター回転数を制御しようとはせず、不時着地点を選ぼうともしませんでした。特定の不時着地点に向かうように機体を制御するのは不可能でした。サイクリックを後方に引き、コレクティブを最低まで下げて、そのままの位置を保ちました。樹木の上空約30フィートの高さで、コレクティブを引きました。その引き上げ速度は通常のオートローテーション時とほぼ同じでしたが、引き上げ量は可動範囲の限界に達しました。
コレクティブを引き上げると機体が激しいスピンに入りましたが、それが右回りだったのか、左回りだったのかは覚えていません。ただし、その(最後の30フィートでの)スピンが激しかったこと、そして樹木の中に着陸したことでスピンが止まったことは確かです。樹木は2つの点で役立ちました。まず、機体のスピンを止め、次に落下の衝撃を和らげてくれました。
墜落による火災は発生しませんでした。エンジンは(墜落後も)作動し続けていました。スロットルは、すでに「フライト・アイドル」まで絞られていました。エンジンの停止操作は行いませんでした。もし同じ状況をやり直せるなら、おそらくエンジンを停止させるでしょう。そのための時間は十分にありました。
(墜落した際、)私が懸念していたのは火災の発生と搭載火器の爆発でした。幸いにも墜落の衝撃が比較的軽く、燃料タンクが破損しなかったため、SA-7ミサイルの被弾による他の撃墜事例のように火災が発生することはありませんでした。
副操縦士と私は(樹木という)塹壕の中に不時着したようなものでした。味方機が上空に到着するまで、その中に身を隠すように努めました。非常用無線機は作動しませんでした。このため、一旦、上空が開けた場所に移動し、味方機に発見されるまで手を振り続けました。発見してもらえた後は、再び身を隠して救出を待ちました。
生還するために何よりも重要だったのは、心理的な面だったと思います。約2ヶ月間SA-7ミサイルの脅威にさらされていた私には、被弾すれば墜落して死ぬことに疑問の余地はありませんでした。しかし、あきらめることは決してありませんでした。重要なのは、ほんのわずかでもチャンスがあるのなら、利用可能なすべての操縦装置を駆使し、航空機を飛ばし続けることだと思います。すべての操縦装置が生き残るための資産なのです。
このテープに録音された(最終的には印刷された)私の経験が、同じような環境で任務を遂行する隊員たちに広く紹介され、その命を救うことに役立てられるように願っています。
マイケル・J・ブラウン大尉、第121航空中隊、ジョージア州フォート・ベニング、1973年6月
出典:ARMY AVIATION, Army Aviation Association of America 2025年02月
翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人
備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。
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こちらにも同じような記事が掲載されています。
https://sobchak.wordpress.com/2011/11/15/missile-missile-missile/