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陸軍航空の情報センター

V-22 オスプレイの知られざる歴史

この記事は、令和元年12月5日にグランドヒル市ヶ谷で開催された「防衛技術協会第17回防衛用ヘリコプター研究部会報告会」で、私が講演をさせていただいた「V-22 オスプレイの知られざる歴史」の内容をまとめたものです。

図1 ヘリコプター・モードで飛行するV-22オスプレイ 写真:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/V-22_(航空機)
図2 エアプレーン・モードで飛行するV-22オスプレイ 写真:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/V-22_(航空機)

V-22オスプレイは、ヘリコプターのように垂直離着陸やホバリングを行うことができるし、固定翼機のように翼で飛ぶこともできる航空機です。このため、ヘリコプターと同じように滑走路が不要であるにもかかわらず、固定翼機と同じ速さで長距離を飛行することができます。この種の機体は、プロペラの役割を兼ねるローターが傾けられるようになっていることから、「ティルトローター」と呼ばれています。

図3 ノン・フィクション「ドリーム・マシーン」 写真:鳥影社HP https://www.choeisha.com/pub/books/56865.html

私が翻訳した「ドリーム・マシーン」という本は、そのオスプレイの歴史に関するノンフィクションです。著者である軍事ジャーナリストのリチャード・ウィッテルは、この物語を書くために、200人以上の関係者から400回以上にわたるインタビューを行い、「それらの事実に自分自身を語らせるようにした」と述べています。
これから、その「ドリーム・マシーン」に描かれているオスプレイの「知られざる歴史」をご紹介してまいります。オスプレイに関しては、あまり良くない報道が目立ちますが、その歴史を正しく知れば、「オスプレイもけっして悪いことばかりではない」ということを理解していただけると思っています。

開発前史

コンバーチプレーンの開発は、ヘリコプターとほぼ同時に始まっていた

図4 ジェラルド・へリックのコンバーチプレーン(1930年)写真:ドリーム・マシーン(鳥影社)

ティルトローターのようなヘリコプターと固定翼機の「あいのこ」である機体は、コンバーチプレーン(転換式航空機)と呼ばれます。
その開発は、ヘリコプターや固定翼機が完成されたのち、それらを組み合わせることで開発が始まったと考える人もいますが、実はそうではありません。例えば、ジェラルド・ヘリックは、飛行中に翼の固定を解除し、オートジャイロとして飛行するコンバーチプレーンを、ヘリコプターがまだ実用化される前の1930年に製造していました。
人類は、もともと「鳥と同じように空を飛びたい」という夢を持っていました。離着陸するのに滑走路が必要な固定翼機や常にバタバタと羽ばたき続けなければならないヘリコプターでは、「鳥と同じように」飛べているとは言えないのです。この夢を実現するため、数多くの人がさまざまな機体の開発に挑戦し、その人生と資産を費やしてきたのでした。

ティルトローター実用化の影には、あるセールスマンの地道な営業活動があった

図5 ディック・スパイビー(一緒に写っているのは、技術者時代に特許を取得したローター・ブレード) 写真:ドリーム・マシーン(鳥影社)

リチャード・ウィッテルが「ドリーム・マシーン」という物語の主人公に選んだのは、ベル社のセールスマンであるディック・スパイビーという男でした。
スパイビーは、ビジネス上の重大な決定を行ったわけでも、技術上の斬新な提案を行ったわけでもありません。しかし、ティルトローターの実用化という夢のとりこになったスパイビーは、多くの軍人、役人、政治家、経営者、技術者などに対し、2,000回以上と推定されるブリーフィングを行い、その夢の実現に必要なアイデアを送り込んできました。
多くの関係者が、誰よりも身を粉にして働いたスパイビーの仕事ぶりを認めています。ある者は、当時を思い起こして「どっちを見ても、ディック・スパイビーがそこにいた」と語っています。ティルトローター実用化の成功の影には、彼のような一介のセールスマンによる地道な努力があったのです。

ティルトローターへの関心が高まったきっかけは、イーグル・クロー作戦の失敗だった

図6 燃料補給地点デザート・ワンで墜落したRH-53Dシー・スタリオン 写真:ドリーム・マシーン(鳥影社)

米軍がティルトローターへの関心を高めたきっかけは、ある作戦の失敗でした。その作戦とは、イランで5カ月半にわたって人質にされていた53名の米国人を救出しようとした「イーグル・クロー作戦」でした。この作戦は、ペルシャ湾に浮かぶ艦船から、8機のヘリコプターRH-53Dシー・スタリオンでテヘランに向かい、米国人を救出するというものでした。
艦船からテヘランに向けて飛び立ったシー・スタリオンは、航続距離が足りなかったため、途中の砂漠でC-130輸送機から燃料補給を受けなければなりませんでした。その燃料再補給点は、「デザート・ワン」と呼ばれていました。しかしながら、デザート・ワンに到着するまでに、砂嵐などの影響で故障が発生してシー・スタリオンが足りなくなり、作戦を中止することが決定されました。このため、デザート・ワンからの撤収を準備していたところ、小移動を行っていた1機のシー・スタリオンがC-130のコックピットに衝突し、双方の航空機の燃料が爆発してしまったのです。この事故で、C-130に乗っていた5名の空軍の搭乗員とシー・スタリオンに乗っていた3名の海兵隊員が死亡しました。この「デザート・ワンの悪夢」は、より遠くまでより高速で飛行できるティルトローターのような機体に対する新たな関心を生み出すこととなりました。

ティルトローターの売り込み先に海兵隊が選ばれた理由は、CH-46の更新だけではなかった

図7 米海兵隊のCH-46 写真:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/V-107

海兵隊は、老朽化したヘリコプターCH-46フロッグの更新が必要でした。しかし、ベル社が、他の軍種ではなく、海兵隊にティルトローターを売り込もうと考えた理由は、それだけではありませんでした。
海兵隊は、過去に何回も、その軍種自体の必要性について議論が巻き起こり、存続の危機に見舞われてきました。しかし、海兵隊は、そのたびごとに議会をうまく操り、その危機を乗り越えてきたのです。そして、自らが今後も存続してゆくためには、もっと遠くから、もっと速く作戦を遂行できる航空機が必要だと考えるようになっていました。
ベル社は、ティルトローターという全く新しい航空機の装備化に伴う問題を乗り越えられるのは、海兵隊であると考えるようになりました。海兵隊は、他のどの軍種よりも、ヘリコプターの能力を乗り越えることに関心があり、自らの軍種の将来に危機感を有しており、そして議会に入り込むすべを知り尽くしていたからです。

ティルトローターの売り込みに最も貢献したのは、XV-15という実験機だった

図8 ティルトローター実験機のXV-15 写真:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/XV-15_(航空機)

XV-15という航空機は、NASA(航空宇宙局)からの要求に基づいてベル社が製造したティルトローター実験機でした。ベル社は、その機体を1981年6月4日から始まったパリ航空ショーに持ち込み、その性能を誇示するデモ・フライトを行って、観衆をあっと言わせました。さらに、NASAからその機体を借り受け、テキサス州のフォートワースで関係者たちに対する体験搭乗を行いました。
XV-15を見たり、それに搭乗したりすることにより、ティルトローターの信仰者となった政治家や軍人たちは、ティルトローター実用化の原動力となってゆきました。

軍からの厳しい要求性能は、設計上の重大な問題をもたらした

図9 ティルトローターに対する要求性能

ティルトローター実用機の開発を請け負うことになったベル社とボーイング社に対し、軍から要求性能が示されました。
そのうち、「高速飛行」、「長距離飛行」、そして「海兵隊2コ分隊またはF-18ジェット戦闘機用のエンジンを空輸できる胴体」などの基本的な要求性能については、すでに予想していたとおりの内容であり、特に問題ではありませんでした。しかし、「高度の耐弾性」や「各系統の多重化」、「IR(赤外線)サプレッサーや地域制圧用火器の装備」、「最新の電子機器の搭載」などの要求は、大幅な重量の増加という問題をもたらすことになりました。その問題にさらなる拍車をかけたのは、「強襲揚陸艦での運用」という要求でした。強襲揚陸艦のエレベーターに乗せられるように、ローターを折りたたみ、翼を回転できなければならなかったのです。そのために必要となる複雑なメカニズムは、さらなる機体重量の増加をもたらしました。
しかしながら、最も衝撃的だったのは、ローターを回転させながら強襲揚陸艦の上部構造物の横を通過できることが要求されたことでした。この要求を満たすためには、各プロップ・ローターの直径を38フィート(約11.6メートル)以下にしなければなりませんでした。通常のヘリコプターのディスク・ローディング(単位面積あたりのローター荷重)は、4〜10ポンド毎平方フィート程度です。しかし、小さなローター直径で大きな重量の機体を持ち上げなければならないこのティルトローターのディスク・ローディングは、20ポンド毎平方フィートを超えてしまいました。それは、オートローテーション着陸が困難になるという新たな問題を引き起こすことになりました。

ベル社とボーイング社の50対50のパートナーシップは、相互調整を困難にした

図10 ベル社とボーイング社の作業分担 写真:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/V-22_(航空機)

ベル社とボーイング社の間の作業分担は、早い段階から決定していました。ただし、その設計を行うに当たっては、相互の調整が不可欠でした。特に、ベル社が担当する主翼とボーイング社が担当する胴体の結合部分については、主翼の折り畳み機構を設けるための詳細な調整が必要でした。
ところが、その調整は、なかなか前に進みませんでした。50対50のパートナーシップの元では、誰も責任を取ろうとしなかったからです。このため、ティルトローター実用機の開発はみるみるうちに遅れてゆきました。

海軍長官ジョン・レーマンの厳しい価格低減策は、新しいティルトローターの開発に深刻な影響を与えた

図11 ジョン・レーマン 写真:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・レーマン

パリ航空ショーでXV-15のデモ・フライトを見て、その魅力に取りつかれた海軍長官のジョン・レーマンは、海兵隊にティルトローターを調達するように促し、ベル社にボーイング社とのパートナーシップを締結させ、議会がその開発を支持するように工作しました。その一方で、そのティルトローターの価格を低減するための施策を次々と打ち出しました。
そのひとつは、この機体のFSD(全規模開発)を「固定価格」で行うということでした。固定価格契約においては、予め定められた最大費用を超過した場合、両社が自己負担で契約を完了しなければなりません。この条件を飲まざるを得なかったベル社とボーイング社は、開発費用の工面に大いに苦しめられることになりました。
また、この機体のエンジンにアリソン社のものを選定しました。その理由は、すでに実績のあるテクノロジーを使っているので安価なことと、将来の出力増加に必要な余裕があることでした。もっと軽量で燃料消費量も少ないGE社製の新型エンジンを使用する予定で進められていたベル社の設計は、最初からやり直しとなってしまいました。
さらに、10機程度のオスプレイが製造されたならば、2つの会社を分離させ、製造契約についてお互いに競争させようとしました。この施策は、すぐさまベル社とボーイング社に仲たがいをもたらしました。両社は、わずか2〜3年後に、製造契約を巡って直接対決することになるからです。結果的には、この施策は実行されませんでしたが、両社間での情報共有を阻害し、開発の進捗に深刻な影響を及ぼしたのでした。

オスプレイという名前が採用された理由は、その鳥の生態だった

図12 オスプレイ(和名ミサゴ) 写真:PIXNIO https://pixnio.com/fauna-animals/birds/osprey-pictures/osprey-spotted-sea-trout

この新しいティルトローターの名前については、ベル社、ボーイング社などからいくつかのアイデアが出されていましたが、その中からボーイング社が提案した「オスプレイ」という名前を選んだのも、ジョン・レーマンでした。
中型の水鳥であるオスプレイ(和名ミサゴ)は、魚を主食とし、上空でホバリングしてからダイビングし、強力なかぎ爪で魚を捕らえます。そして、垂直に離陸し、魚を海岸まで運んでから食べるのです。レーマンは、その生態が、この軍用ティルトローターの名前にぴったりだと考えたのでした。

オスプレイのロールアウト式典が行われた時、機体はまだ完成にほど遠い状態だった。

図13 オスプレイのロールアウト式典(1988年5月23日) 写真:ドリーム・マシーン(鳥影社)

オスプレイの開発は、数々の問題により、スケジュールから遅れていきました。それでも、海兵隊やベル社とボーイング社は、それが順調に進んでいるかのように装い、その予算を狙う者たちからオスプレイを守る必要がありました。
1988年5月23日、1号機のロールアウト式典が大々的に行われました。このイベントのために、ハリウッドのプロデューサーやニューヨークのセット・デザイナーと脚本家が雇われました。50人の将軍、8人の上院および下院議員、地方および中央報道記者など、招待された来賓は、総計2,000人以上におよびました。しかし、肝心のオスプレイは全く完成できていない、張りぼてのような状態だったのです。例えば、機体後方のカーゴドアを開け閉めすることもできず、機体の陰に隠れた整備員が外部から油圧を供給して操作しなければなりませんでした。

墜落事故との暗闘

オスプレイの初飛行は、ベル社とボーイング社の社員だけが見守る中で行われた

図14 オスプレイの初飛行(1989年3月19日)

オスプレイの初飛行が行われたのは、1989年3月19日のことでした。この行事は、ロールアウト式典とは打って変わって、20〜30人のベル社とボーイング社の社員だけが見守る中で行われました。
オスプレイが飛行できなかったり、もっと悪い結果に終わったりするかもしれないのに、あえて多くの人に見せる必要はないと考えられていたのです。

オスプレイの宣伝活動には、日本の通産大臣のコメントも使われた。

図15 松永光通産大臣(当時)写真:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/松永光

この頃、ボーイング社の工場があるペンシルバニア州選出の下院議員であるカート・ウェルダンは、「V-22がアメリカ以外の国で作られるようになったならば、大問題です」という手紙を関係者に送り、その危機感をあおって、オスプレイ計画が存続するように働きかけました。
その手紙には、日本の通産大臣である松永光がベル社のティルトローター工場を研修した際に述べた言葉が添えられていました。それは、「米国がこれを作ったら、日本はそれを買うだろう。もし、米国が作らなければ、日本がそれを作る」というものでした。

オスプレイの最初の事故は、操縦系統の配線ミスが原因だった

図16 試作5号機の事故の映像 写真:YouTube https://www.youtube.com/watch?v=VYeLishJ_Js

1991年6月11日18時頃、デラウェア州のグレーター・ウィルミントン空港にあるボーイング・ヘリコプター社の飛行試験センターで、オスプレイの試作5号機が操縦不能に陥って墜落するという事故が発生しました。この機体は、製造後初めての飛行のため離陸しようとしていたところでした。この事故により、パイロット2名が軽傷を負いました。
事故調査の結果、この事故は、ジャイロと呼ばれる部品の配線が誤って反対に接続されていたのが原因であったことが判明しました。ジャイロとは、操縦系統に組み込まれている機体が傾く速度を感知する部品です。その信号は、操縦制御装置に送られ、機体が安定するように操縦を微調整するようになっています。ところが、その配線が反対に接続されていたため、機体の傾きの速度を反対に、つまり、速いときには遅く、遅いときには早く傾いたと伝えてしまいました。このため、パイロットが操縦桿を操作すると、機体がパイロットの意図とほぼ反対の挙動を示してしまったのです。
誤配線の原因は、ジャイロ用配線の製造ミスでした。5号機の製造が始まった後、それが判明し、接続のやり直しが行われました。その後、予算の執行停止の影響を受けて、5号機の製造はいったん停止されました。その際、接続のやり直しが行われたことが、しっかりと記録されていませんでした。このため、数カ月後に機体製造が再開された際に、接続のやり直しがもう一度行われてしまい、接続が誤った状態に戻されてしまったのでした。

2回目の事故は、複数の不具合があったにも関わらず、飛行を継続した後に発生した

図17 試作4号機の飛行経路と不具合

4号機は、フロリダ州のエグリン空軍基地での耐気候性試験を終了しようとしていました。それに合わせて、バージニア州のクワンティコ海兵隊航空基地で、海兵隊のVIPたちを集めた祝賀行事が行なわれようとしていました。その行事の目的は、オスプレイ計画が順調に進んでいることをアピールすることにありました。しかし、過酷な試験を終えた4号機には、多くの修理が必要となり、その出発は、何回も延長を繰り返しました。
1992年7月20日、ようやくすべての修理を終えた4号機が出発日を迎えました。パイロットは、定刻にクワンティコに到着しなければならないという海兵隊上層部からの強い圧力を感じていました。ところが、最終的な準備を行っている最中にオイル・フィルターの不具合が発見され、その修理のために2時間も離陸が遅れてしまいました。また、APU(補助動力装置)を始動しようとしたところ、安全機能が働いて停止してしまうという不具合が発生しました。こういった場合には、本来、故障探求を行うべきでしたが、離陸を急いでいたパイロットは、安全機能を解除してAPUを応急的に始動し、エンジンを始動して離陸してしまいました。さらに、離陸後には、ローター系統に不具合が発生したことを知らせる注意灯が点灯しました。本来であれば、速やかに着陸すべきでしたが、警報系統の配線が原因であると推定されたことから、飛行を継続してしまいました。
もともとの計画では、クワンティコに向かう前に、ノースカロライナ州のシャーロットに着陸して、燃料を給油する予定でした。しかし、APUに不具合が発生しているため、いったんエンジンを停止すると再起動できなくなる可能性がありました。また、「直ちに着陸せよ」という警報が表示されているにも関わらず再度離陸することは重大な安全規律違反に該当してしまいます。このため、燃料が十分に残っていることを確認したうえでシャーロットへの着陸を見送り、直接クワンティコに向かうことを決定しました。
クワンティコの上空に到着した4号機は、着陸するためにエアプレーン・モードからヘリコプター・モードへの変換を行い、ナセルをほぼ垂直に傾けました。その時、右側エンジンが停止するとともに火災が発生し、機体はポトマック川に墜落してしまいました。この事故により、搭乗していた7名全員が死亡しました

図18 試作4号機の右側プロップ・ローターの駆動が停止した原因

事故調査の結果、この事故の原因は、エンジン・ナセル内部のギヤボックスのシールからのオイル漏れであったことが判明しました。シールから漏れたオイルは、エンジン・ナセルが水平の間は、エンジン・カウリングの底にたまっているだけでした。しかし、エンジン・ナセルが上方に向けられると、そのオイルがエンジン内に注ぎ込まれ、エンジンへの空気の流入を妨げて、エンジンを停止させてしまったのです。
オスプレイの2つのローターは、主翼の中を通るドライブシャフトで連結され、片方のエンジンが停止しても、反対側のエンジンだけで両方のローターを回せるようになっています。しかしながら、そのオイルがエンジンの熱で発火したため、エンジン・ナセル内部のドライブシャフが溶けて破断し、右側ローターの回転速度が低下してしまいました。
オイルが漏れたのは、出発前の整備において、ギヤボックスのオイル・シールを反対方向に取り付けてしまったことが原因であると考えられています。

ベル社は、映画「タイタニック」にXV-15を使いたいという依頼を断っていた

図19 映画「タイタニック」 写真:Amazon https://www.amazon.co.jp/タイタニック-吹替版

1995年、ハリウッドのあるプロデューサーが、新しい映画の撮影にティルトローターを使いたがっているという連絡がスパイビーに入りました。スパイビーは、XV-15を使ってそのプロジェクトに協力するように上司に提案しました。
その映画のオープニングシーンでは、何十年も前に沈没した船から脱出した年老いた女性が、その船から引き揚げられた遺品を確認するため、調査船に航空機で乗り込む場面が映し出される予定でした。その映画のプロデューサーは、その場面にティルトローターがピッタリだと考えていました。ヘリコプターよりもさらに未来的な航空機を使うことで、その船が沈んでから長い年月が過ぎたことを聴衆に伝えられると考えたからです。しかし、ベル社は、XV-15を海上で飛行させるリスクと、それがもたらすメリットを比較考量し、この提案を断ってしまいました。
1997年に「タイタニック」というその映画が封切られると、11個のアカデミー賞を受賞し、ハリウッドの歴史の中で、それまで最高の興行収入を得た映画となったのでした。

3回目の事故は、制限を大幅に超えた降下を行ったために発生した

図20 14号機の事故発生時に行われていた飛行任務の実施状況 図:Jウイング2019年4月号「いま検証する開発時の4つの事故」(イカロス出版)

オスプレイは、その開発費を節約するため、試作機の数を減らさざるを得なくなりました。このため、本来は個別に行われるべきである開発試験と実用試験がメリーランド州のパタクセント・リバー海軍航空基地において、同時並行的に行われることになりました。開発試験とは、特別なテスト・パイロットおよび技術者により行われる、航空機としての基本的性能を確認するための試験です。これに対し、実用試験とは、軍人のパイロットおよび搭乗員たちによって行われる、部隊における運用への適合性を確認するための試験です。
2000年4月8日、実用試験の最終フェーズがアリゾナ州のマラーナで行われました。それは、夜間に民間人を大使館から救出するという、イーグル・クロー作戦を模した想定で行われる試験でした。また、この飛行任務は、オスプレイの試験だけではなく、搭乗員の評価も兼ねたものとなっていました。このため、4機のオスプレイの他にも戦闘機などが参加し、極めて実戦に近い環境で行われることになりました。1番機と2番機の副操縦士には、この飛行任務が終わった後、教官操縦士としての資格が与えられる予定でした。さらに、1番機の副操縦士には、この飛行任務に参加する4機のオスプレイを指揮するという役割も与えられていました。
飛行中、1番機のミッション・コンピューターと呼ばれる器材に不具合が発生しました。それは、飛行に影響を及ぼすものではありませんでしたが、その対応に気を取られているうちに、降下を開始すべきチェックポイントを通り過ぎてしまいました。それでも予定どおりの時間に、予定どおりの場所に着陸しようとした1番機は、急降下を開始しました。2番機であるオスプレイ14号機もそれに追従しました。着陸直前、14号機に急激な右ロールが発生し、背面から地面に墜落してしまいました。この事故は、搭乗員および兵員、合計19名が死亡するという大惨事になりました。

図21 14号機のボルテックス・リングの発生状況

事故調査の結果、事故の原因は、ボルテックス・リング・ステートと呼ばれる空気力学上の現象であったことが判明しました。それは、ローターが自分自身のダウンウォッシュの中を急速に降下したために、もはや本来の推力や揚力を発生できなくなる状態をいいます。
1番機に追いつこうとしていた14号機は、40ノット(時速約74キロメートル)以下の対気速度で、地面に向かって毎分2,050フィート(毎秒約10メートル)の降下率で急降下していました。規定によれば、この速度では、毎分800フィート(毎秒約4メートル)の降下率を超えてはならないことになっていました。その限界を大きく超えて急降下した14号機は、右側のローターがボルテックス・リング・ステートに入り、急激な右ロールが生じてしまったのです。

4回目の事故の原因は、飛行制御ソフトウェアの欠陥だった

図22 8号機の不具合発生状況 図:Jウイング2019年4月号「いま検証する開発時の4つの事故」(イカロス出版)

オスプレイの実用性評価試験は、2000年7月に終了したものの、その合格について国防総省の承認を得ることができませんでした。特に油圧系統に不具合が多く、信頼性が不十分であると判定されたのです。
そんな中、2000年12月11日、ノースカロライナ州のニュー・リバー海兵隊航空基地において、オスプレイ8号機が、パイロットの技量回復のため、夜間の計器進入訓練を行っていました。すると、ナンバー1およびナンバー3油圧系統に不具合が発生したことを示す警報灯が点灯しました。このような場合、パイロットは、その故障が本当の不具合なのか、それとも警報系統の不具合なのかを確認するため、自動操縦系統システムのリセット・ボタンを押すように訓練されています。ところが、飛行制御ソフトウエアに欠陥があったため、そのボタンを押すと、機体姿勢に大きな変化が生じてしまったのです。その姿勢の変化は、パイロットの体が激しく揺さぶられるほど大きなものでした。しかも、理由は明らかではありませんが、パイロットは、そのボタンを9回も押し続けてしまったのです。
操縦不能に陥った8号機は、ニュー・リバー海兵隊航空基地の約10キロメートル手前にある森の中に墜落し、搭乗員4名全員が死亡しました。
図23 8号機の不具合発生状況
事故調査の結果、この事故の原因は、飛行制御ソフトウェアにあったことが判明しました。ナンバー1およびナンバー3油圧系統に作動油漏れが生じた場合に自動操縦系統のリセット・ボタンを押すと、どういうわけか、ローター・ブレードのピッチがいったんフラットになるようにプログラミングされていたのです。
オスプレイには、3重の油圧系統が装備されており、1つの系統に障害が発生しても、他の2つの系統で飛行が継続できるようになっています。8号機の場合は、ナンバー1油圧系統の配管が電気配線とこすれ合って損傷し、作動油が漏れていました。この油圧配管は、左エンジン・ナセル内にあるスワッシュプレートを動かしているアクチュエータに接続されていました。
まず、ナンバー1油圧系統の作動油がすべて失われ、その作動を停止しました。すると、それをバックアップするため、ナンバー3油圧系統の油圧がナンバー1油圧系統に供給されました。しかし、ナンバー3油圧系統も作動油が減少したため、左側スワッシュプレート・アクチェーターへの油圧の供給を停止しました。このため、2つの系統から油圧を供給されている右スワッシュプレート・アクチェーターと1つの系統からのみ油圧を供給されている左スワッシュプレート・アクチェーターとの間に、フラットピッチから元のピッチに戻る時間に差が生じてしまったのです。このことが機体姿勢の大きな変動を発生させました。
ソフトウエアにこのような欠陥があることを把握できていなかったのは、開発中に操縦系統の試験設備が故障し、一部の試験が行われないままとなっていたためでした。

整備記録の改ざんに関する告発は、オスプレイ問題を国家的スキャンダルにした

図24 ドナルド・トランプ 写真:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/ドナルド・トランプ

この事故がオスプレイ計画に及ぼす影響をさらに大きくしたのは、その事故が発生した部隊で、整備記録の改ざんが発覚したことでした。
当時、海兵隊上層部では、オスプレイの可動率低下が問題になっていました。「この問題をなんとかしろ」という指示は、末端部隊に伝わるに従って、より厳しいものとなってゆきました。追い詰められた飛行隊長は、隊員たちを集めて、整備記録をごまかすように指示しました。すると、その指示を録音したひとりの整備員が、そのテープを海兵隊上層部に送りつけ、整備記録が改ざんされてきたことを告発したのです。さらに、同じ情報を「60ミニッツ」というテレビ番組にも流したのでした。
この整備記録の改ざんは、事故の原因とは無関係だったのですが、このような不正が行われているという告発は、国家的スキャンダルとなり、オスプレイと海兵隊に強烈なイメージ・ダウンをもたらしました。かつてはティルトローターを支持していた実業家のドナルド・トランプ(現在の米国大統領)も、「パイロットは、ヘリコプターか飛行機かどちらかを操縦すべきであって、両方を同時に操縦すべきではないのだ」と語り、その意見を変えてしまいました。

復活への取組

オスプレイ計画への批判が高まる中、「イベント駆動型」が非公式な方針となった

図25 オスプレイ計画の最大の過ち

8号機の事故の後、オスプレイ計画を中止すべきだという批判が嵐のように吹き荒れました。長年にわたって、物事がうまくいかなかったことには、多くの原因があったと考えられました。「過度に野心的な要求性能」、「スケジュールに関する軽率な保証や故意に安く見積もった価格設定」、「新しいテクノロジーの過剰な詰め込み」、「50対50のパートナーシップと衝突」、「強襲揚陸艦から飛び立つ必要性によりもたらされた設計上の妥協」、「海軍長官ジョン・レーマンによる固定価格契約の強要」、「予算の執行停止間の資金不足」、「早期装備化を目指す海兵隊の圧力」などです。
しかしながら、最大の過ちは、計画を実行するために与えられた時間、つまりスケジュールでした。関係した海兵隊の指導者たち、ベル社およびボーイング社の重役たちなどの誰もが同意したのは、政治的には困難なことであったものの、オスプレイ計画は「スケジュール駆動型」ではなく、「イベント駆動型」でなければならなかった、ということでした。「スケジュール駆動型」とは、「この時期までに終わらせる」と決めて物事を進めることやり方であり、「イベント駆動型」とは、「ひとつひとつの段階をやり遂げてから」物事を進めるやり方のことです。「イベント駆動型」は、オスプレイ計画の非公式な方針となり、ほとんどすべてのミーティング、すべての議会での公聴会、すべての記者会見で繰り返し語られるようになりました。今度こそは、急ぐことなく、正しく行わなければなりませんでした。

ブルーリボン委員会は、71項目の勧告を行った上で、開発の継続を認めた

図26 V-22計画検討委員会の結論と主要な勧告

そんな中、「V–22計画検討委員会」と呼ばれるブルーリボン委員会が立ち上げられ、オスプレイ計画を継続するかどうかが検討されました。「ブルーリボン委員会」とは、与えられた命題に関する調査、研究または分析を行うために任命された学識経験者のグループです。有名なものとしては、ケネディ暗殺事件を調査した「ウォーレン委員会」があります。
「V–22計画検討委員会」が出した結論は、「オスプレイに根本的な欠陥があるという証拠はない」というものでした。委員会は、そのうえで、エンジン・ナセルおよび飛行制御ソフトウエアの改修および再試験、ボルテックス・リング・ステートやオートローテーションに関する飛行試験の実施などの71項目に及ぶ改善を勧告しました。この勧告に従い、設計のやり直しと徹底した試験が行われたオスプレイは、全く新しい航空機に生まれ変わることとなったのです。

オスプレイは、ヘリコプターよりもボルテックス・リング・ステートに陥りにくいことが確認された

図27 高降下率試験の結果

ブルーリボン委員会の勧告に基づき、高降下率試験というボルテックス・リング・ステートの限界を確認するための試験が行われました。この試験は、安全な高度を確保した上で、低い前進速度で急降下を行い、実際にボルテックス・リング・ステート状態を発生させるというものでした。
この試験の間に、どちらか一方のローターがボルテックス・リング・ステートに入り、急激なロールが発生したことが11回ありました。ヘリコプターにおけるボルテックス・リング・ステートが発生する限界は、40ノット(時速約75メートル)以下の前進速度において毎分800フィート(約240メートル)前後であることが分かっていました。しかし、オスプレイがボルテックス・リング・ステートを引き起こすためには、40ノットにおいて、少なくとも毎分2,500〜2,600フィート(約760〜790メートル)の降下率で降下する必要がありました。また、パイロットがスイッチを押してエンジン・ナセルを前方に傾け、ローターを乱れのない空気の中に入れさえすれば、機体のコントロールを回復できることも確認できました。
この高降下率試験により、オスプレイのボルテックス・リング・ステートの限界は、世界中のどの回転翼機よりも詳細に研究され、何の疑いもないレベルで確立されたのでした。

オスプレイは、オートローテーションで安全に着陸できる必要性はないと判断された

図28 オートローテーション飛行試験の結果

ブルーリボン委員会からのオートローテーションに関する勧告についても、飛行試験が行なわれました。その結果、オスプレイの場合、オートローテーションでそのまま安全に着陸することは、極めて困難であることが確認されました。ただし、それは、「欠点ではあるものの、決定的なものではない」と判断されました。
その理由は、エンジンの信頼性を考えると、両方のエンジンが同時に故障して停止する可能性は極めて低く、かつ、オスプレイの場合、2つのナセルが両翼端に離れて配置されているため、同時に被弾する可能性も低いからです。また、万が一、両方のエンジンが停止した場合においても、翼があるオスプレイは、ローターを前方に向けたたま滑空することができるからです。そのまま着陸するとローターが地面に接触してしまいますが、ブレードが小さな破片に砕けることで危険が生じないようになっています。

再設計と再試験を終えたオスプレイは、不死鳥のようによみがえった

図29 イラクに初めて派遣されたVMM-263の隊員たち 写真:ドリーム・マシーン(鳥影社)

ブルーリボン委員会の勧告に基づいた再設計と再試験を終えたオスプレイは、不死鳥のようによみがえりました。そして、最初のオスプレイ飛行部隊がイラク戦争に派遣され、その実戦での運用が始まりました。
「オスプレイがまた事故を起こすのではないか」と不安をあおるマスコミの報道もありましたが、オスプレイは、その任務を無事故で完遂しました。その部隊の指揮官であったポール・ロック中佐(当時)は、現在、沖縄の第3海兵遠征旅団の司令官として勤務されています。

教訓

図30 ニュー・リバー海兵隊航空基地で訓練中の陸自のV-22オスプレイ 写真: 陸上自衛隊ホームページ https://www.mod.go.jp/gsdf/news/train/2019/20190716.html

リチャード・ウィッテルがこの本で言いたかったことは、「イベント駆動型」でなければならないというような、オスプレイ計画に関する教訓だけではないと私は考えています。「オスプレイ問題のような意見の対立が起こった場合に、それを解決するために必要なことは何なのか」というような、もっと普遍的な教訓もあったのではないかと思えるのです。
ウィッテルは、「ドリーム・マシーン」のあとがきの中で、「オスプレイの問題は、中絶をめぐる議論と似ている。信仰者と非信仰者がいて、そのどちらもが相手のことをいくらかでも理解しようとすることがほとんどなかった」と述べています。日本では、あまり報道されていませんが、米国では、近年、人工中絶をめぐる問題が激しい議論を呼んでいます。2019年には、いくつかの州で中絶を禁止する法律が成立しました。考えてみると、「神様から授かった命を親の都合で消し去ってはならない」という意見にも、もっともだと思える面もあります。これは、まさに宗教的な問題であり、そういう意見を持つ人にそれを変えさせることは、非常に困難なことなのです。
中絶問題と同じく、宗教的な問題を持つオスプレイが、その実用化を成し遂げることができたのは、なぜなのでしょうか? ウィッテルは、「ドリーム・マシーン」の本文の中で、「人を改宗させる努力を根気よく続けるためには、深い信仰心が必要なのであった」と述べています。オスプレイの実用化には、ディック・スパイビーなどの関係者による伝道師のような地道な努力が不可欠だったのです。そして、その地道な努力の源になったのは、オスプレイに対する深い信仰心だったのです。深い信仰心とは、すなわち「夢」なのではないでしょうか? 鳥と同じように空を飛ぶという人類普遍の夢が、オスプレイ実用化の原動力だったのではないでしょうか?
陸上自衛隊用のオスプレイは、2018年度にすでに納入されたにも関わらず、国内での配備先が決定していなかったため、米国内に残されたままになっています。2020年に木更津に暫定配備されることになっているものの、「オスプレイなんて、どこにもいらない」という反対派の人たちを説得するためには、これからも多くの努力が必要となることでしょう。オスプレイに関係している自衛隊の関係者、そして、それを支援している企業の方々にとっては、まだまだ大変な状況が続くと思いますが、どうか「夢」を持ち続け、この試練を乗り越えていただければと思っています。

「ドリーム・マシーン」の物語は、「セールスマンは、夢に生きるものなのだ。その夢は、受け持ち区域にあるのだ。」(『セールスマンの死』アーサー・ミラー著、倉橋健訳)という一節で始まります。
この機体を運用し、整備することは、陸上自衛隊の隊員を育て、それを支援する関係企業の方々に多くの経験をもたらしてくれるはずです。そして、何よりも、この機体を見た子どもたちに、こんな飛行機を操縦したい、整備したい、あるいは、もっとすごい飛行機を作りたい、そんな夢を与えてくれるに違いありません。どうか皆さん、こんなオスプレイをぜひ応援してください。

令和2年1月 日の丸オスプレイが、日本の空を羽ばたく日を夢見て

           

発行:Aviation Assets 2022年03月19日

備考:この記事は、防衛技術ジャーナル2020年5月号および6月号に掲載されました。

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