AVIATION ASSETS

陸軍航空の情報センター

自らの限界を知れ

氏名非公表

2回目の派遣から4ヶ月が経過した頃、私は今回の派遣(ツアー)が前回とは大きく異なることを痛感していました。暑くて砂埃まみれなのは相変わらずでしたが、飛行任務の頻度(フライング・テンポ)は確実に高く、より少ない人員・資材でより多くのことが行われるようになっていました。派遣前にある上司が「我々は、我々が望む陸軍ではなく、今ある陸軍で戦争に行くことになるだろう」と言っていたのを思い出しました。実際、そのとおりでした。

13日連続の飛行を終えて航空機から戻る途中、「おい、お前(ヘイ・ユー)」といういつもの言葉で上司に呼び止められました。次の任務に必要な情報がすべてまとまった書類の束(ニーボード・パケット)を手渡された私は、前夜に投入された数名の兵士をピックアップ(回収)するよう告げられました。まわれ右をし、フラッシュライト(懐中電灯)を点けて書類に目を通すと、そこには何かの間違いに違いないと思うようなことが書かれていました。命令書には、AMC(air mission commander, 空中部隊指揮官)がPC(pilot in command, 機長)であり、私がその副操縦士であると記されていたのです(通常、AMCは指揮統制機に搭乗して上空から全体を指揮するか、3人目の乗員としてジャンプシートなどで作戦指揮に専念する)。この飛行に対する私の不安を予期してか、その上司は、これは単純な任務だと言って私を安心させようとしました。私の機体は4番機(Chalk4)となり、他の3機に続いてLZ(landing zone, 降着地域)へ向かい、部隊をピックアップして前方運用基地で降ろす手はずでした。「楽勝だ」とその上司は言いました。

任務を決して断らないという不屈の精神に支えられていた私は、疲労困憊していたにもかかわらず、不本意ながらこの飛行に同意しました。搭乗員ブリーフィングと航空機の飛行前点検の手順が完了しました。この作戦についてより詳細な情報が欲しかった私は、切手サイズのLZの白黒写真を見ようとしました。その画像は、まるで古い新聞から切り抜いたかのように見えました。あるベテラン・パイロットが「万策尽きたら、ただ座標(グリッド)へ飛んで着陸しろ」と言っていたのを思い出し、笑ってしまいました。

航空機を始動すると、予定どおり4番機として離陸しました。数分後にはダウンウインドに入り、右旋回して北向きに着陸しようとしていました。機長は無線交信で忙しく、私は「1番機に続け」ごっこ(追従飛行)をしていました。GPS(Global Positioning System, 全地球測位システム)の表示は概ね正確でした。1番機が地上への進入を開始し、続いて2番機、3番機が進入するのが見えました。編隊は、巨大な塵雲を巻き上げながら、西からの風も味方してくれない中、右千鳥の着陸隊形(ランディング・フォーメーション)で着陸しようとしていました。3番機との間隔を確保するように努めていた私がGPSを見ると、ピックアップを待つ地上部隊からのBFT(Blue Force Trackerm, 味方追尾装置)の信号に気づきました。これはいい、私専用のビーコンだ、と私は思いました。搭乗員たちが地上はクリアだと合図する中、私は右側の地上部隊と左側の3番機との間隔を確保しながら進入しました。地面があまり見えないこと以外は、すべて順調でした。

機体は、正常な速度と降下率で接地したように思えました。ところが、機体が完全に停止する直前になって、大きな破裂音(ポップ)が聞こえ、航空機が前方に傾き、機首が下がり始めました。私はホバリングまで高度を上げました。左側のチン・バブル越しに、幅2フィート(約61センチメートル)、深さ約3フィート(約91センチメートル)の溝があり、その中に機体から脱落した前部降着装置が落ち込んでいるのが見えました。PCが操縦を引き継ぎ、航空機の状態評価を開始しました。私はその溝を覗き込み、「地上部隊は、ヘリコプターにピックアップされると分かっていながら、なぜ溝のそばにいたんだ?」と不思議に思ったことを覚えています。

機体の損傷を評価した結果、軽微な作動油漏れがあるものの、飛行可能であると判断しました。私がユーティリティ油圧系統を確保すると、PCは操縦を私に戻しました。PCは、地上部隊が他の航空機に搭乗するように調整しました。

PCと私は新しい計画について話し合いました。我々は航空機を展開地まで飛行させ、整備部隊にパレットで即席の着陸台を作らせることに決めました。整備部隊がパッドを組み立てている間、我々は約30分間ホバリングしました。その間に、航空機をどのようにシャットダウンするか、そして横転の可能性について話し合うことができました。着陸とシャットダウンは比較的スムーズに進みました。航空機を離れた後、航空機とパレットの間に数本のアンテナが挟まって潰れているのが見えましたが、それは避けられないことでした。

教訓事項

この出来事(インシデント)は今でも私の心に鮮明に残っています。「それは単なる業務上のコスト(コスト・オブ・ドゥーイング・ビジネス)だ」と言う者もいました。この「ビジネス」は、我々にクラスC事故という代償を払わせました。けが人はおらず、航空機もわずか数日で飛行可能な状態になりましたが、私は「俺はいったい何を考えていたんだ?」と自問せずにはいられませんでした。

戦争とは、一切の妥協を許さない過酷なものです。戦闘の過酷さは、すべての兵士に精神的・肉体的なタフさと、密接なチームワークを要求します。戦いの合間の不安な時間に、我々は寒く湿った天候の中で、陣地から陣地へと移動し、温かい食事や清潔な衣服、睡眠もないまま、欠かすことのできない恒常的な任務をこなさなければなりません。規律が崩壊する可能性は常に存在します。私の場合、(現実のものであれ主観的なものであれ)飛行しなければならないというプレッシャーに疲労が組み合わさり、危険なコンビネーションとなっていました。自分がどれほど疲弊しているか、そして誰にでも限界があるということを、自覚できていなかったのです。このことは、ゴー/ノーゴーの決定に際して、確固たる個人的な限界を設定し、一度決定したらそれを堅持することの重要性を示しています。

私はまた、慢心の罠にも陥っていました。地上部隊が安全な着陸地域へ誘導してくれると信じ込み、警戒を緩めてしまっていたのです。慢心は、戦闘中に我々が直面するおそらく最大の脅威であり、常にその存在を意識し、それと戦い続けなければなりません。航空は容赦のないビジネスであり、一瞬の不注意が悲惨な結果を招く可能性があるのです。

                               

出典:Risk Management, U.S. Army Combat Readiness Center 2025年12月

翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人

備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。

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