特別任務:LHFEメモリー・フライト
VHPA(Vietnam Helicopter Pilots Association, ベトナム・ヘリコプター・パイロット協会)特集
編集者注:この記事は、VHPAの会報である『The VHPA AVIATOR』の紙面に掲載されたものです。「レガシー(遺産)を守り抜く!」どうぞお楽しみください。

2023年10月28日土曜日、ある女性がUH-1ヒューイの副操縦士席に座り、目に涙を浮かべながら操縦装置や計器に触れ、一度も会ったことのない父親との繋がりを持ちました。彼女がエイト・デイ・クロック(航空機用機械式時計。一度巻くと8日間作動する)を指差して、「私にわかるのはこれだけです」と誰かに言っているのが聞こえました。
シェリー・ハットフィールド・リウは、飛行ブリーフィング、安全ブリーフィング、航空機の歴史についての少しの説明を聞いた後、基本的な飛行前点検(ウォーク・アラウンド)を体験しました。そのヘリコプターは彼女の父が1970年の運命の日に操縦していたものとすべてが一致するように塗装されたことについても、説明を受けました。その後、父の機長であったジョン・ローガンと共に後部座席に乗り、アリゾナ州メサ地域の砂漠上空を約20分間飛行しました。
シェリー・ハットフィールド・リウの父、マイク・ハットフィールドは、1970年3月22日、ベトナム共和国ビン・トゥイ省タン・リン飛行場の南5マイルにある「ザ・ロック」と呼ばれていた降着地域で、搭乗していたヒューイがRPG(rocket-propelled grenade, 携行式ロケット弾)によって撃墜され、戦死しました。
この物語はすぐに実現したわけではありません。先週の土曜日のヘリコプターへの搭乗とベトナムでのヘリコプター墜落事故の間には、53年7ヶ月と1日の隔たりがありました。この間ずっと、この若い女性は常に父のことを想っていましたが、その生と死に関する情報(ニクソン大統領から彼女の母への手紙を含む)をいくつかのスクラップブックに持っていた以外、直接的なことは何も知りませんでした。
シェリー・ハットフィールド・リウが第190 AHC(Assault Helicopter Company, 空中攻撃ヘリコプター中隊)のフェイスブック・ページに連絡を取り、「ヘリコプターに乗るには、どこに行けばよいか知っている人はいますか?」と質問したのは、2年以上前のことでした。私はその日、第190部隊の「友達」として、また何人かの隊員の「友達」として、たまたまそのフェイスブック・ページを見ていました。私は単に「はい、お手伝いできますよ。どちらにお住まいですか?」と返信しました。ワシントン州エレンズバーグに住んでいると教えてくれた彼女に、私はヘリコプターに搭乗できる場所はたくさんあるけれども、アリゾナ州メサにある陸軍航空遺産財団サウスウエスト支部が最も近いと伝えました。
私たちがIM(インスタント・メッセージ)版に切り替えて、この会話をしているところへ、友人のトム・マクナマラが入ってきて「ジョー、ここは私が引き受ける」と言い、自分が誰であるか、そしてどのようにして彼女の父を知っていたかを彼女に話し始めました。以下はその会話の抜粋です。
「シェリー、私の名前はトム・マクナマラです。私は第190 AHCに在籍していて、あなたのお父さんを知っていました。私たちはほぼ同時期に現地に到着した戦友でした。もしあなたが1970年に生まれた娘さんなら、彼があなたのお母さんがあなたを妊娠したことを知ったばかりの夜、私は士官クラブで彼と時間を共にしていました。当時の記憶は少し薄れていますが、彼が自分の世界にあなたが加わったことを発表したときの喜びと満面の笑みは忘れられません。お父さんはとても、とても幸せそうでした。あなたが彼に会えなかったことは本当に残念です。お父さんは誰からも好かれる、立派なパイロットでした。」
この会話があったのは2021年の春のことでしたが、この計画がついに実現したのは、去る2023年10月28日土曜日のことでした。搭乗にかかる全費用は様々な人々からの寄付で賄われたため、通常であればかなり高額な搭乗費用は、シェリーやジョン・ローガンとその付き添いの息子には一切かかりませんでした。
彼女たちが搭乗したヘリコプター(ヒューイ315)は、彼女の父が亡くなった頃の1970年に製造されたものです。その機体は、ダグウェイ性能試験場に引き渡され、ベトナムへ行くことはありませんでした。最終的にはコーパス・クリスティー陸軍工廠でホワイト・トップ(胴体上部を白く塗装されたヘリコプターであり、主にVIP輸送任務や非戦闘任務機(司令官機など)に見られる)に改修され、そこの指揮官機として用いられていました。
GSA(General Services Administration, 一般調達局)に余剰機の受け入れを申し入れていた陸軍航空遺産財団は、数年前にその機体を取得しました。その機体の復元作業は、財団のゲートウェイ支部で開始されましたが、その後、サウスウエスト支部に引き継がれました。サウスウエスト支部は、フェニックスや南カリフォルニア地域のボーイング社、MDヘリコプターズ社、その他の企業から非常に優秀な人材を集めることができました。同支部の記録によると、復元を完了し、FAA(Federal Aviation Administration, 連邦航空局)の証明を受けるためには、3,000人・時以上の工数と3年間のボランティア労働が必要でした。証明を受けてからも、商業飛行の許可を得て、財団のLHFEプログラムの運用機に組み込むまでに丸1年以上かかりました。この復元プロセスの途中で、IP(instructor pilot, 教官操縦士)の一人であるトム・マクナマラが、その航空機を第190 AHC所属機と同じように塗装し、ロゴを入れるように組織に請願しました。
2021年の春にシェリーやトムと私の間でこの会話があったとき、この機体はまだ完全には飛行可能な状態に復元されていませんでしたが、トムはシェリーに、それが実現し、乗客を乗せる承認をFAAから得たら、必ず乗せると約束しました。この期間には新型コロナウイルス感染症の影響もありました。シェリーは、私たちが通常提供する搭乗のように他の10人と一緒ではなく、一人で航空機に乗ることを望んでいました。そのLHFEのプロセスは1年以上を経て今年の10月4日に実を結び、この前の週末、私たちの多くがファルコン・フィールドにあるサウスウエスト支部の格納庫に集まり、シェリー、彼女の父の機長であったジョン・ローガンとその息子がやってきて、この航空機、事実上シェリーの父親の航空機での搭乗が実現しました。
フェニックス市の地元テレビ局は、自身も退役軍人である男性を派遣し、この感動的なイベントのすべてをビデオ撮影しました。イベント終了後には、シェリー、トム・マクナマラ、ジョン・ローガンへのインタビューも行いました。編集されたビデオは、日曜日の夜にFOXチャンネル10のニュースで放映されました。
私は日曜日の朝、シェリーと同じ飛行機でシアトルに戻りましたが、彼女はその日の出来事でまだ非常に感情が高ぶっていました。彼女がこのイベントを忘れることは決してないでしょう。地上で父の席に座り、その後、父の機長が横に座る中、後部座席に乗ってアリゾナの砂漠上空を約20分間飛行することで、自分の父親との直接的な繋がりをようやく持つことができたのです。
出典:ARMY AVIATION, Army Aviation Association of America 2025年09月
翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人
備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。
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