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シナイの砂に刻まれた教訓——忘れることのできない患者後送任務から

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本稿に示された見解は専門的議論を促進することを目的とするものであり、米陸軍および米陸軍戦闘即応センター(U.S. Army Combat Readiness Center, USACRC)の方針を示すものではありません。

その日は、エジプト・シナイ半島の多国籍軍・監視団(Multinational Force and Observers, MFO)に属するタスク・フォース・シナイの航空中隊にとって、補給と周回ルート飛行——懸吊物の輸送、人員移動、そして患者後送(Casualty Evacuation, CASEVAC)待機ローテーション——からなる通常任務の日になるはずでした。シャルム・エル・シェイフを拠点とした作戦行動は慣れたものでした——海岸線から吹き付ける塩気を帯びた潮風、熱気と砂塵の中での任務でした。それまで何度もこなしてきた任務でした。しかし、患者後送は私にとって初めての経験でした。レディネス・レベル2の資格を得たばかりで、その日は患者後送シフトの初日でもありました。

昼近くなる頃、アカバ湾と紅海の上空は穏やかで、視程は際限なく広がっていました。わが隊のUH-60は、患者後送仕様に装備を整え、待機していました。その後の展開が、沈着冷静さ、クルー・コーディネーション、そして動揺が体に染みついた訓練を圧倒するときの判断力の麻痺について、自分のあらゆる知識を試すことになるとは、全く予想していませんでした。

呼び出し

誰かが伝令を送り、私を呼びに来たのでしょう。機付長の一人が兵舎の扉を激しくたたきました。落ち着いた、感情を抑えた口調でこう言いました。「ティラン島で航空機が墜落したそうです。患者後送、発進します。」

頭をよぎった最初の考えは、小型の民間機——観光チャーター機か地域便——に違いないというものでした。まさか自分たちの機体ではないだろう、と。当時、私たちの対応時間は長かったのです。私たちは患者後送(Casualty Evacuation, CASEVAC)部隊に過ぎませんでした。正規の医療後送(Medical Evacuation, MEDEVAC)部隊が持つような規則や対応基準は持っていませんでした。私たちの患者後送任務は平穏で、予測可能なものでした。緊急事態や生死に関わる事案とは、無縁の任務でした。フライト・ギアを手に、おずおずと運航事務所へ入っていきました。すると、航空機へ急ぐよう怒鳴り立てる人たちの群れが出迎えました。これは緊急事態であり、到底予測できる類の事態ではないと、徐々に実感し始めました。機長(Pilot-in-Command, PC)はすでに機内に乗り込み、エンジンを始動させて発進態勢を整えていました。急いで座席に収まり、ヘルメットを接続してピッチを引き上げ、離陸しました。

接近と現実の認識

近づくにつれ、遠くでぼやけていたものがしだいに形をなし、見なければよかったと思うような光景が現れてきました。高度を保ちながら見ると、岩だらけの砂地に広がる残骸のひろがりが目に飛び込んできました——破片があらゆる方向に飛び散っていました。

現実を認めざるを得ませんでした。旅客機でも観光機でもありませんでした。そうでないことを祈っていましたが、やはり自分たちのブラック・ホークだったのです。

コックピットは、無線とローター音を除いて静まり返りました。訓練が体を動かし始めました——現場周囲を旋回して状況を把握し、生存者を探し、地上部隊と調整し、できる限り記録する。感情は後回しにするしかありませんでした。

救出

着陸すると、砂の上に体を起こして座っている生存者の姿が見えました。救難員たちが飛び降り、現場を確認するとともに、さらなる生存者の捜索に当たりました。数分のうちに、生存者は1人だけであることが明らかになりました。再び、すべてが終わるまで感情を奥深くに封じ込めなければなりませんでした。生存者は重傷でしたが、意識はありました。収容は迅速、的確、機械的でした——何度も訓練で備えてきた者の動きが、混乱の中でも時に優美に見えることがあるように。

数分後には再び飛行状態に戻り、ティラン海峡を越えて帰投しました。医療チームはキャビンで、ほぼ無言のまま処置を続けていました。着陸して待機中の救急チームに患者を引き渡すまで、ほとんど誰も言葉を発しませんでした。姉妹基地であるエル・ゴラーも患者後送クルーを発進させ、支援に当たりました。その後は、彼らが生存者をイスラエルの上位医療機関へ搬送することになりました。

回収作業

生存者を上位医療機関へ引き渡した後、給油を行い、態勢を回収モードに切り替えました。その後7.8時間にわたり、わが隊の1機のブラック・ホークが往復を繰り返し——技術者、消防隊員、不発弾処理班、整備専門家、警備チームを、遠隔のその島へ輸送し続けました。着陸のたびに次の着陸が重なるように——人と装備の際限ない積み下ろしが続きました。砂と砂塵による視程低下は、着陸のたびに基準点を確保する戦いを強いました。その単調なリズムは感覚を麻痺させていきました。しかし往復を重ねるごとに、各グループが混乱に少しずつ秩序をもたらしていきました。

夜が更ける頃、最後の任務が始まりました——戦没者の遺体の搬送です。誰も言葉を必要としませんでした。遺体移送チームは、慎重に、厳かに遺体を搬送しました。砂漠の風さえも静まり、湾からの海風も止まったかのようでした。

人的要因と教訓

その後の数日間、調査員と安全チームが作業を行いました。私の心に刻まれたのは人的要因、すなわちいかなるチェックリストも訓練も捉えきれない領域の問題でした。

1. 衝撃は予告なく訪れる。

呼び出しを受けたとき、私はそれを信じませんでした。この否認の瞬間が、反応時間を遅らせ、意思決定を曇らせることがあります。訓練では緊急事態を模擬しますが、緊急事態が身近なものになったときに生じる感情的な衝撃は再現できません。今後の訓練には、危機・墜落対応の心理面に備えるためのストレス免疫訓練の要素を組み込むべきです。

2. コミュニケーション規律が数分を救い、数分が命を救う。

アドレナリンが高まっていても、コックピットは規律を保ち続けました。当初、機長が操縦を担当し、私が無線と航法を管理しました。その後、油断と固執を防ぐため、定期的に任務を交替しました。明確で落ち着いたコールアウトが、両者の同期を保ちました。その落ち着きは生まれつきのものではなく、訓練によって叩き込まれたものでした。すべての基準が重要でした。積極的なクルー・コーディネーションは最重要事項です。

3. 洋上・砂漠での作戦は孤立を増幅させる。

現地に展開すると、助けを求められる場所はありませんでした——頼れるのは自分たちのクルーと訓練だけでした。遠隔環境で活動する部隊は、長時間にわたる任務支援のリハーサルを行うべきです。その内容には、燃料再補給の管理、悪天候条件への対処、人員ローテーションと疲労管理のための不測事態対処計画が含まれます(これらに限られません)。疲労は、熱気と暗闇の中で急速に蓄積します。

4. 事後のケアが重要である。

翌日には任務に復帰していましたが、心はまだティラン島の上空を旋回し、仲間を砂の中から掘り出し続けていました。リーダーは、生存者だけでなく対応者もまた、後になって現れる可能性のあるストレス負荷を抱えていることを認識しなければなりません。救難員、機付長、パイロットには、食堂(Dining Facility, DFAC)での「大丈夫か?」という非公式なやりとりではなく、体系的な心理的負荷軽減措置が必要です。

結論

ティラン島でのあの日は、安全とは事故を防ぐことだけでなく、予防が失敗したときに何が起こるかへの備えであることを、改めて気づかせてくれました。あらゆる緊急対応は、システム、手順、そして人間の精神的回復力の試験です。わが隊のクルーはミスなく任務を遂行しましたが、私の中に残ったのは誇りではなく——視点の変化でした。

離陸したとき、私は他人の悲劇に向かって飛んでいると思っていました。しかしあの夜が終わる頃には、陸軍航空において他人の悲劇というものは存在しないことを理解しました。私たちは皆それを背負っています。そして皆そこから学びます——いつかの日、別のクルーがその経験をしなくて済むように。

訳者コメント:本稿は、エジプト・シナイ半島に展開する多国籍軍・監視団(MFO)でのCASEVAC任務を題材とした一人称の体験記です。著者はCASEVAC(一般後送)とMEDEVAC(専用医療後送)の制度的違いを前提として論を展開しており、海外派遣先での後送体制を考えるうえで参考になります。「衝撃は予告なく訪れる」「事後のケアが重要である」という教訓は、陸上自衛隊航空科隊員にとっても直接活用できる内容ではないでしょうか?
                               

出典:FLIGHTFAX, U.S. Army Combat Readiness Center 2026年05月

翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人

備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。

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