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陸軍航空の情報センター

戦時における安全(1986年6月12日付Flightfax誌より)

安全専門家の報告によれば、今日、陸軍上層部がこれほどまでに安全を重視しているにもかかわらず、一部の若手指揮官の間には、安全とは平時の任務でこそ考慮すべきものであり、戦時になれば安全は贅沢品になるという認識が依然として存在するといいます。もしそれが事実であり、また状況が厳しくなったとき真っ先に切り捨てられるのが贅沢品であるというのも事実であるならば、戦争が始まれば我々はもはや安全を維持する余裕を失うことになります。しかし本当に問うべきは、「戦時において安全を考慮しないという余裕が我々にあるのか」という点です。

航空作戦における安全の重要性を認識していた軍人の一人に、第二次世界大戦最終年にインド・中国間の空輸を統括していたウィリアム・H・タナー将軍がいます。空軍歴史家のリチャード・W・ヒューリング博士は、1986年4月発行のFlying Safety誌に掲載した記事の中で、航空機による軍への初の補給作戦の一つにおける、タナー将軍の経験について述べています。

この空輸作戦は、1944年にタナー将軍が指揮を執った時点で、すでに約2年間続けられていました。この作戦は、日本軍の存在と地理的条件という致命的な組み合わせによってビルマ・ロードを経由した物資輸送がほぼ不可能となったため、地上作戦を主体とする司令部がやむを得ず開始したものでした。これらの補給物資は極めて重要でした。中国西部の中国軍がこれによって作戦を継続できれば、200万人の日本軍を釘付けにし、太平洋方面の米軍に対する日本軍の行動を封じ続けることができたからです。

地上部隊を苦しめた過酷な地形は、中国軍への補給を続けようとするパイロットたちにとっても障害となっていました。しかし、問題はヒマラヤの高峰やジャングルだけではありませんでした。タナー将軍は著書「オーバー・ザ・ハンプ(Over the Hump)」の中で、1944年夏にインドへ到着した際に目にした状況について記しています。

「故郷から遠く離れた見知らぬ土地、謎めいた後進的文明の辺境には、危険な飛行をもたらすあらゆる条件が揃っていた。霧、豪雨、雷雨、砂塵嵐、高い山々、酸素を必要とする高度、重い搭載量、鈍重な機体、不十分あるいは皆無の無線援助、敵対的な現地住民、ジャングル、そして山岳地帯の高高度に設けられた一方通行の飛行場である。」

1944年1月時点で、この空輸作戦における事故発生率は飛行1,000時間あたり1.97件でした。ハンプ(ヒマラヤ)越えの飛行200回ごとに1機が失われ、中国へ100トンの物資を空輸するごとに3名の米兵が死亡していました。事故のほとんどは機体全損に至るものでした。航空機は山頂に激突するかジャングルの中で行方不明となり、パラシュートで脱出できたわずかな搭乗員も、そのまま姿を消して二度と発見されることはありませんでした。

タナー将軍はまもなく、これまでの取り組みがすべて空輸可能なトン数の増加に向けられていたこと、そしてトン数の増加に伴って事故発生率も上昇していたことに気づきました。安全はそれまで完全に軽視されていたのです。夜間飛行が行われていたものの、無線通信・航法支援施設は発着拠点を除いて整備されていませんでした。気象条件はほとんど無視され、多くの機体が陸軍航空隊の基準に反する状態で飛行していました。

タナー将軍は、輸送トン数を増やしながら事故発生率を下げるという課題を掲げました。平時においても、任務と安全のどちらかを選ばなければならないと言う者がいますが、タナー将軍の指揮下では、戦時という環境の中で、一見両立し得ないこれら二つの要求を同時に満たすことに成功しました。

将軍らは何を行ったのでしょうか。将軍らが導入した安全プログラムは基本的な要素で構成されており、今日の安全活動においても用いられている考え方であり、次の4つの要点に集約されます。

タナー将軍とその幕僚は、操縦士の訓練内容についても調査を行い、ハンプ越えの任務に送り出す前に不足があればこれを補いました。将軍らは気象と通信を重視するようになり、着氷や乱気流といった状況への対策に取り組むとともに、航法装置への習熟を進め、それらが利用できない場合の対処法についても理解を深めていきました。

もう一つの重要な取り組みは、操縦士の規律でした。タナー将軍はチェックリストを使用することの重要性について、極めて明確な指示を与えていました。エンジン始動から目的地でのエンジン停止に至るまで、正確な手順を踏むことが強く求められました。

「ブリーフィングとデブリーフィングは、極めて重要であることが判明した。ブリーフィングでは、操縦士に飛行経路を十分に理解させるだけでなく、搭乗員が予定された飛行を安全に遂行できる技量を備えているかを確認していた。デブリーフィングによって、不適切な飛行手順が明らかになり、是正措置や追加訓練の必要性が示されることとなった。デブリーフィングはまた、我々にとって最良の気象情報の入手源ともなっていた。」

これらの取り組みは効果を上げたのでしょうか。タナー将軍着任直前の1944年8月には、23,000トンの物資がハンプ越えで中国へ空輸されました。この時点での事故発生率は、飛行1,000時間あたり約2.0件で推移していました。1945年1月には約40,000トンが空輸される中、事故発生率は0.301まで低下しました。1945年7月までに総輸送量は71,042トンへと急増し、事故発生率は0.239となりました。この空輸作戦最後の大規模輸送月となった1945年8月には、135,000飛行時間の中で20機が失われ、事故発生率は飛行1,000時間あたり0.154まで低下しました。タナー将軍は、これらの統計を別の角度から捉えることで、その意味を実感させています。

「もし1943年及び1944年初頭の高い事故発生率がそのまま続いていたならば、輸送量と飛行時間の大幅な増加に伴い、米国はその月に失う機体が20機ではなく292機に上っていたであろう。そしてその人的損失は、世界を震撼させるものとなっていたに違いない。」

第二次世界大戦終結から13年が経過した時点でも、陸軍航空はなお黎明期にありました。陸軍全体の航空機事故データが初めて収集されたのはその年、1958年のことであり、その数値もまた衝撃的なものでした。飛行100,000時間あたり54.3件の事故が発生していたのです。しかし、1985会計年度前半までに、陸軍はクラスA~C事故発生率(class A-C rate、事故の重大性に応じて区分される米陸軍の事故分類区分に基づく発生率)を9.80まで削減しました。1986会計年度前半のクラスA~C事故発生率は9.22でした。これらの削減は、陸軍航空の任務がますます過酷になり、内在するリスク全体が高まる中で達成されたものです。

こうした削減を実現するために用いられた方策の多くは、1944年にタナー将軍が用いたものと同じです。すなわち、飛行及び整備の手順・実施要領の分析、事故に関する統計的調査及び分析、分析で明らかになった不備の是正に関する勧告、迅速な措置及びそのフォローアップ、操縦士の規律を重視した訓練の充実、そして入念な飛行前ブリーフィングです。

陸軍の事故発生率にはこれまで大幅な改善が見られてきましたが、これらの数値は戦時条件下ではどのようなものになっていたでしょうか。ベトナムでは、航空搭乗員はインド・中国国境付近の状況と大差ない条件下で飛行しており、ここでも損耗は大きなものでした。1968年末までに、国防総省は敵の行動により2,228機の航空機が失われたと報告していますが、同じ期間中に事故によって失われた航空機は2,540機に上りました。戦時に安全プログラムを維持する余裕など、我々にあるのでしょうか。歴史が我々に教えているのは、安全プログラムを持たないという余裕こそないということです。安全は、戦時であれ平時であれ、任務そのものの一部でなければなりません。安全なくして、任務を成し遂げることは到底できないのです。

-本記事のうち、インド・中国間空輸作戦に関する部分は、空軍検査安全センター(Air Force Inspection and Safety Center, AFISC)歴史家であるリチャード・W・ヒューリング博士の論文から引用しています。

訳者コメント:本稿は1986年6月12日号Flightfax誌の記事が2011年に再掲された回顧記事です。原文中の「class A-C rate」は米陸軍独自の事故重大度分類(AR 385-10)に基づく発生率指標であり、陸上自衛隊の航空事故区分とは基準が異なる点にご留意ください。また、現在の米陸軍の基準は、当時と異なっています。任務量の増加と事故率低減を同時に達成したタナー将軍の取り組みは、統計分析・是正措置・教育訓練を組み合わせた安全管理の基本形として、今日の安全活動にも通じる内容です。
                               

出典:Wortime Safety, FLIGHTFAX, U.S. Army Combat Readiness Center 2011年06月

翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット管理人

備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。

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