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大東亜戦思い出

1 戦前

終戦後57年、記憶をたどって体験記を綴ってみる。

昭和12年7月7日、支那、現在の中国と日支事変が始まった。当時、日本は、支那大陸を向こうにまわして戦争となり、日に日に軍事体制が進んでいた。旭川の第7師団には、動員が下って村や町から若い男は入営、そして召集兵として入隊し、平時は2万人なのに、5万人にもなっていた。戦争に行く兵隊さんは実弾の入った鉄砲や大砲を、軍刀なんか抜けば青光するのを下げて、師団通り、今の買物公園を4列になって進んで、駅前広場で一休みして家族や知人と最後の別れをして出征していった。行く先は支那の戦場で、国民は手に手に日の丸の旗を振って、万歳万歳の声で別れの涙とともに汽車が発車、動き出した時の万歳は一声で、声はかれていた。軍用列車は、煙を吐いて見えなくなっていった。俺も鷹栖の家から24キロメートルを、知っている人または従兄弟たちを見送るのに何回も来た。

戦争はだんだん広がって、日本軍は、今日も明日もと勝った勝ったと進軍進軍しているとラジオや新聞で報じられた。その頃は、人ばかりではなく、毎日可愛がって仕事をしてくれている農家の馬が、大砲や荷物を運ぶのに戦場へ行ってくれた。家からは2頭行った。家族のようなので可愛かった。人の代金はもらえないが、馬の代金はもらえた。

やがて、北支那から中支、南支または奥地へと、北は北京から徐州、南京、重慶と、この小さな国の日本が支那大陸へ日本の若い人たちを占領した所に配置してしまった。そうしているうちにも、支那がなかなか負けたと言わないのは、後押しをしている米国、英国があるからだと言うことになり、日本は世界が平和になるためと言って大東亜戦争が始まった。これは、それまでの事変ではなく、戦争なのだ。

2 大東亜戦争開戦

支那の蒋介石が降伏しないのは、他の国を占領する日本は悪い国として支那を援助し、日本に不利な条件をつけてくるからであった。やむなく、日本はドイツ、イタリアと同盟を結んで、米国と英国に対して昭和16年12月8日にハワイの真珠湾を不意に爆撃し、大東亜戦争が始まった。

日本軍は、北はアリューシャン列島に軍を送り、南方は英国領香港を占領、南方へと進軍。フィリピン、ビルマ、シンガポール攻略、南方の島全部、ソロモン群島、ガダルカナル方面までも占領した。グアム島、硫黄島にも軍を置き、海軍は全部これを守りながら戦争した。しかし、日本の力はそこまでが最高であった。当時、国内では、男は元気な者はほとんど赤紙と言う召集令状が軍から来たら、決められた時間には、今死にそうな親を残しても行かなければならなかった。軍には、憲兵と言う軍隊の中の警察がいて、軍規を守り、違反者を取り締まる任務を負っている恐ろしい兵隊がいた。

小学校を15歳で卒業。その頃の農家の子供は、中学校に行かせてもらえるような子供はいなかった。小学校の頃から農家と言うか、親の手伝いをするもの、させるものと思っていたから、5、6年生なったら、色々と男は男の仕事、女は女の仕事を習いながら手伝いをした。男の子は作業、女の子は炊事とか弟や妹たちの守りをした。当時は、どこの家でも兄弟の5人や6人は普通だったから、昔の親たちもそれなりに大変苦労をした。また、爺さん、婆さんのいた家の子供達は、親にも勝るお世話になった。

16歳から農作業の合間に軍事訓練が始まった。青年学校というものが出来ていて、1年、2年は「気をつけ」「休め」「右向け右」「前に進め」と号令によって団体を指揮する訓練、高学年になると射撃戦闘演習、精神教育、銃剣道。一通りの軍になるべく、勉強をさせられた。真夏の30度以上の中での行軍は、全身が汗で乾いたところがない。しかし、俺には、志願して入る軍隊。来年は戦場とも知れない、と頑張った。

3 入営初年兵教育

昭和19年5月5日、宮城県石巻市の陸軍船泊工兵第34連隊に入隊することになった。入隊する時は、家には弟たちが5人もいるのに、または、雪解けで農作業が始まるというのに子供が戦争に行くと思ったか、その時の親の気持ちは今の俺でも経験はない。北海道から石巻まで来てくれた親は少なかった。同日入隊した猿払村から来ていた塚越さんは、これが親との最後になってしまった。

8月には、初年兵教育が終わった。中隊に4名残った以外の同時入隊兵は、全部南方戦場へ行った。後から噂を聞くと、上陸しないうちに輸送船がやられ、ほとんど戦死したとの話。確実な話は、まだ、聞いたことはない。初めて見る軍隊生活。色々聞いて覚悟はしていたが、まずは、日常生活について説明された。1回聞いたくらいで全部が分かる訳がない。しかし、説明は1回。そして3日目、班付兵長が「お前らお客さんではないんだぞ。わかったか」と。それ来た始まったと思った。それから段々日が経つと、内務班の掃除、食事、演習。1日中、休みは全く無い。

当時、俺達は20歳。日本人の3大義務は兵役、納税、教育であった。国の大事な時に役に立たなければならないと常に思っていて、満20歳になったら日本の男子は徴兵検査によって、合格したものは平時でも2年間は兵役に服する義務があった。このようだから、早く軍隊に入ってと思い、さっそく兵学校を受験したが破れ、次の年に現役を志願したがレントゲン検査でまた外れ、ようやく次の年甲種合格として戦車隊になることになっていた。乙種または丙種の者は、必要に応じて招集される。

前に戻って、内務班生活だが、今の仕事をしているうちに次の仕事を考え、その用意を他人に遅れないようにしなければならない。それを出来ず、ボサッとしていたら、その時になったら道具も無くなっていて、何も出来ない。それが、夕食後になってのビンタになって帰ってくる。「ちょっと来い」と言われて前へ行ったら、直立不動で立つ。次に「歯を食いしばれ」「足を横に開け」打たれても口が歯で切れないように。また、倒れないようにしておいて、何発も来る。力一杯なので、3発までは痛いが、その後はグワン、グワン言うだけで、痛みはあまりない。終わったらほてることほてること。手ぬぐいを水に浸して押さえる。それでもまだ、手なら良いが、手が痛いからと物で殴られ怪我したなと思ったら、薄暗い藩内で週番士官が夜の点呼に回ってくる時には、後列に立たせて見えにくくしておく。そして、「人員異常なし」を申告する。

起床ラッパが鳴ったら、4、5枚の毛布を畳み、服を着て短時間で整列しなくてはならない。古年兵に遅れるようではこれもビンタの種。食事ともなれば、大きな樽のような容器で持ってきて、茶碗に入れるが、皆、毎日の演習で腹が減る。当番が飯を盛る。自分のは、少しでも多く盛りたいが、皆の目が見ているので、茶碗に押し込む。他人のは、ふわっと盛る。しかし、なかなか苦労する。お膳に入れた班長さんの食事は、自分の鼻の高さよりも高く、捧げるようにして運ぶ。鼻の息がかからないように。それでも、班長さんも人間、一生懸命やれば分かってくれて、俺だけ悪い時は別だが、全員で受けるビンタの場合など、良く「理塀、お前何をしているんだ。あのことをしておけと言ったのに早くしてこい」と言われ、そんなことは聞いていなかったのにと思いながら終わらせて帰れば、皆、ビンタの後だったことも何度か。

当時の教育班長は、自分の洗濯物を初年兵にしろとは言わず、班長同士が話し合って、他の班長が下士官室へ行った時に、お前の班長が風呂へ今行ったと教えてくれる。風呂へ行って背中を流しますかなどと言って洗濯物を取ってくる。人間は、ごますりやおだてだと思っても、どんな人でも悪気はしないのが常。他人によく思われようとする時は、やはり理屈を言わずに認められるよう努力が大切だ。

俺は、案外、体を動かすことは得意だったので、良く各個訓練等で模範にされて、体裁悪かった。初年兵だから、小さい足に大きな古い靴を履かされ、歩くも走るも大変。言ってもだめなことだから、ある時、競争させられたことがあった。その時に靴の紐をゆるめて走った。靴が脱げて片足は裸足で走ったら、「やっぱりだめか」と小さい靴と交換してくれた。手旗訓練も厳しかった。他人に負けられないと思って皆寝ている間にそっと起きて、トイレに行くふりで外へ出て、便所のガラス戸に自分の姿を映して2週間頑張ったら一番上手になった。

班長が外泊した時は、「3日間留守になるから、理塀頼む」と言って外出したので、すぐ俺はこの機会を大切にしたいと思って、紙に理塀の印を押して下士官室の班長の手箱に封印をした。後は誰も手を付けられないと思って。頼まれたから当然と思った。

教育期間が終わって、部隊が編成される命令が下った。中隊全員、約200名が一室に集合し、内野人事曹長より、1名ごと名前と職種を、例えば魚雷艇用員、装甲艇用員、快速艇用員とそれぞれ読み上げられた。俺の名前はいつだ、この次、と思っているうちに終わってしまった。変なこともあるものだ。こんな厳しい軍隊の命令にも間違いがあるものか、と思っていた。「今、名前を呼ばれなかった者は手を挙げよ」と言われたので挙げたら、「この4名の者は、今少し教育不足なので、次回にする。以上」と言われた。

4 召集部隊編成

部隊長 清水少佐
とにかく初めてのことで、班長のところに行った。20人もの班員は、全部いなくなる。俺はみんなよりまだ1年若い。必ず戦地へ行かなければならない。また、全然知らない部隊に入らなければならない。戦友と一緒に行きたかった、と話をしたら、原班長は、俺も今回は編成に入らなかった。俺が行くときは、共に行こう。「軍の命令」だ。曲げられるものではない、と言われた。戦友は、「今一度、北海道へ帰ってみたかった」とよく演習の合間に北上川の堤防で一服休みの時に話していたのに。海から北上川を上って1キロメートルのところに兵舎があった。舟は、そこらへんにつないであった。この川は、水の流れは緩やかで、丁度、石狩川が石狩平野を流れているようなもので、川に入れば、鏡の上を走るかのようであった。

我々の舟は、60隻のディーゼル直立4気筒水冷エンジンで、小発動艇と大発動艇があり、共に敵前上陸用舟艇で、兵員物資の輸送目的の舟で、当時、我々は、軍の機密になっていたので、舟はもとより、俺等も当時の写真は1枚もない。(外泊した時の写真が1枚あったので、表に貼ってある。)

上陸部隊を乗せ、沙浜50メートルくらい近くになると、錨を下ろし、ワイヤを伸ばして、達着。兵員を上陸させ、錨を巻いて、舟は沙浜を離れ、次の行動になる。大発動艇は、前に歩板があって、これを開いて兵員物資を下ろす。北海道の田舎育ちが突然船乗りになって心配はあったが、後へは引けず、覚悟していたが、俺は、まれなことに他の者は舟酔いする者もいたが、一度も船酔いはしなかった。右舵は「おも舵」左は「とり舵」。車のハンドルは、2回転半だが、舟の舵は、7、8回は回る。艇長から、「エンジン回転2000、ノース30度、イースト。おも舵一杯。」ということで、右に向きを変えた。正規の角度に向く前に元に戻さなければ、舟は角度以上に向くから、早めに戻す。車と違ってブレーキがないので、急に止める時はスクリューを反回転させる。舟は、このようにできている。

無風で波のない時は、こんな静かな乗り物はない。しかし、荒波になったら沙浜に達着後、引き返そうとしたら、錨を巻くと舟はバックする。大波は、後ろからぶつかる。波は、後ろから前まで飛び越えることもある。航行中に荒れてきたら、上官も隊長もない。この時の指揮官は、1等兵でも漁師歴10年となると、突然指揮官になる。「こんな波はなんだ。ひっくり返っても、この舟は、木舟だから沈まないぞ。舟から離れるな」その大声を聞けば、力強くなり、頑張ったものだ。

松島へは、毎日のように演習に行った。塩釜海岸で演習。松島を通って石巻に帰ってくる。20年後、陸中海岸旅行の時、松島から遊覧船で塩釜海岸を見た。かの沙浜海岸は、少しもなかった。松島五大堂の松の下へ舟を隠してから、防塞訓練をしたものだ。戦友が全部戦地に行った後、俺に外泊ができることになった。兵舎は部隊が出た後は、がらんとしていた。1週間の外泊は、思いもよらないことだった。内地は、北海道より厳しくないと思い、家へ帰った。途中、旭川の春光台(昔の演習地)を歩いて鷹栖へ向かった。第7師団の兵隊が草原で草を頭に付けて演習している。俺は、教育が終わったばかりで、未だに赤い襟章に星1つ。北海道の兵は、不思議に思ったのではないか。後で思ったのだが、旭川では、鷹栖出身の下士官でも、なかなか外泊などできないのに。会えばみんな俺より上官、将校なんか立ち止まって敬礼しなければならない。何度か呼び止められて、「どこから来た」と言われ、「はい、石巻から外泊です」と言えば「やあ、いいな」とうらやまれた。

召集兵が入ってきた。戦地に行く部隊が編成された。教育班長の原さんも加わった。東京出身の菅井さんが、この時から俺の分隊長だ。最後帰るまで、信頼できる人だった。俺が復員してから、芳明が勉強するのに東京に行くようになったが、知人がいない。菅井さんを頼んで1ヵ月も世話になったこともある。

そのあと、部隊は、松島の遊覧船のついているところより200メートルも離れていない高いところにある、大きな旅館に入ることになった。2階から見れば、松島湾が太平洋へと広がっている。五大堂も左下にある。

5 横浜八戸間

現役の部隊が出発して召集部隊が編成され、この部隊に入ることになった。当の原班長も右翼分隊長で勤務。やがて横浜から青森県の八戸の鮫の港へ航海演習となり、我々は、横浜市内の4階建ての学校かと思われる建物に入った。1ヵ月間、ここで東京湾での演習。8月の横浜は暑くて、松島とは気温が違い、北海道出身者は眠られぬ。夜の点呼が終わったら、屋上に上がって星を見ながら腹に毛布を巻いて寝て、朝になって部屋に入った。道の向こうに小学校があり、子供たちがいる。かわいくて話をすると、歯切れがよくて、さすが大都会の子供だなと思った。

面白い話で、子供と話をしていたら、兵隊さん星2つ? うちの父さんは、陸軍少将だよとか、ホラにしては、このガキと思った。また、本当かもしれない。地方で少将と言ったら師団に2人しかいない旅団長だ。このあたりの子供は、我々にしてみれば可愛くない、と変な感心をさせられた。また、向かいに4階建てもある病院もあった。夜になると病院の電気が明るく1室を照らしている。若い患者たちがピンクの下着で寝ている。誰かが言ったら、次の夜から上官も来ない屋上からの光景。病院は、3階上からはよく見える。こちらは真っ暗、暑くて窓は開けっぱなし。馬鹿にしてか、カーテンを閉めたり、開けたり、風にまくられたり、大騒ぎ。1ヵ月もいるものだから、声は聞こえるが意味不明。そうちに誰かが手旗信号を手で送る。これを見て向かいから勉強して送ってくるようになったので大笑い。手旗信号は、すぐ覚えやすい。松島あたりでは、どこの沙浜でも俺らの舟は着くことができる。10年兵になると、初頭兵教育などで何年でも同じことをしているので、浜の人または島に住んでいる人たちと親しくなる。舟で通ると、浜から島の娘さんが手ぬぐいを振って信号してくることも。良くは知らないが、かつて間違いが起きたこともあったとか。

とにかく、俺等北海道人は内地人を見て、俺等が遅れているのか、内地人が悪いのか。特に都会育ちには、どうしてもハンディがある。石巻あたりでも、日曜日に外出したら、女の町が賑わっていて驚いた。旭川の師団の話からすると、相当違っていた。入営したら、初年兵は煙草はダメと聞いていたが、1人当たり5本はくれた。手紙は、全部検閲。内容の悪いもの、また女からの手紙でも1人以外のものは手に渡らなかった。妻が面会に来たら旅館で1泊できた。

話はそれたが、俺等が東京湾夜間演習で航海していたら、風もないのに異様な風音がしたと思ったら、これがトビウオの大群で、夜の海へバチバチと落ちた。また、横浜から夜に出たが、海から見たらどこを見ても電気がついていて、入るところに逆らって困ったこともある。あの頃でも東京湾や横浜あたりは、すごいなと思った。

これからは、青森へ向かって航海。まずは、東京湾を横切って、房総半島の先端のある港で一泊。次の日は、半島を廻り、九十九里浜を左に見て、夕方、利根川に入った。利根川は、大きな川だと聞いていたが、その河口の狭いこと。舟の通る道は、少ししかない。左に灯台があって、上流に行けば広くなるのだと話していた。次の日、夜が明けたら大荒れで、今日は出航延期。その次の日も出れなかったと思う。3日目の朝、風はやみ、収まったかのようになった。

銚子出航が決定され、川を出た。うねりの大きさ、高さには驚いた。途端に思い出した。俺の小学校くらいはあるなと。今まで見たこともない河口のうねり。10メートルもあるのかと思われたが、波と違ってこの山を登っては下り、下りては登り。前の舟は、山の向こうでしばらく見えない。沖から漁船が帰ってきて、「兵隊さん、今日は危ないよ」と舟の上から叫んでくれたが、それには全然かまわず、舟は太平洋に出た。波は静かになった。波がない時ほど、平和な船旅。こんな良いものはない。4隻か5隻のこれも小さな船団。横を走っている舟からは、中隊長が釣り糸を舟の後ろで引いている。何が釣れるか、俺等の舟では、菅井さんが分隊長で一番偉く、東京の人で、兵長さん。部下に良い人だったから、部下も良くなる。小田上等兵は、平和な航海には、この人の唄が、本当に舟全部が和やかにもなる。声は良し、節は良し、男ぶりは良し。男でも、ほれぼれする。どんな大きな声でも、エンジンの音で他の舟にはわからない。こうやっている間に、午後3時ころになって、何か波が高くなってきた。早く、小名浜港へ入らなければならなくなった。風は、日暮れとともに強くなってきた。満潮になってきた。

港の灯が見えるころには、波はたけり狂いだした。一刻も早くと思ったが、赤灯台があるのに大きな波が左から右へ。いずれも白波が見えた。防波堤に波が乗り上げる時の光景だ。一瞬遅れたら、舟は一度に壊れてしまうこと間違いない。危機一髪、舟は方向転回。考えて見たら、港の灯を見て急ぐあまり、操舵手が間違って赤灯台を右に見て入るのを、左に見てしまったのが悪かった。乗っていた我々も習って知っていたのに、人にばかり頼りすぎてしまった。全員が反省して港に入った。小さい町だろう、浜の港は兵隊さんなんか来たこともない町へ兵隊さんが行ったんだ。珍しいこともあって、大した歓迎をしてくれた。出航する時は、国防婦人会や青年団、小学生も楽隊で送ってくれた。小名浜から松島へと海は平和であった。小田上等兵の唄声でかつて我が家の松島へ一泊して宮古港へ向かった先では、途中の気仙沼に向かった。今日も平常、石巻から北上川を北上して何かよくわからないが水路のようなところを長い間走って、海を通らずに気仙沼に行ったような気がする。この港は、漁港で有名な港で、船泊隊以外にも多くの人が入っていて、頑張っている。横道にそれることだが、俺が入隊して思ったのは、石巻へ入隊してみたら、普通はその地方の人が地方の師団に入るが、俺等は日本全国からきているので、何かしら地方によって人の気質が違うこと。北海道から九州までそれぞれ長所はあるが、よく皆特徴を持っている。

気仙沼出身の兵隊は、頼りになった。途中、魚がいるところを通ったら舟が来たのでびっくりしたのか、俺等の舟は水面まで1メートル50センチもあるのに飛び上がって、2、3匹も舟の上でピチピチとはねていた。40センチくらいあった。その日は、細い水路を通ったので、船同士が衝突もした。乗っていた隊員がぶつかったショックで水中に落ち、どこへ行ったかいないと探していたら、舟の前の突き出しているところにいた。大笑いしたのは、この兵は泳げない兵だったので、水に入ったらもう駄目だと思ったか。悲鳴を上げていた。船舶兵は、水上では救命具を絶対つけている。落ちても必ず浮いてくるのに、泳げない者は非常に恐怖だっだようだ。上がってからの話では、上向きになって起きられなかったということだった。

教育期間に練習に気合が入って、上官に何も言わず、突き落とされることもあった。手旗を持っているので、これを2本丸めて殴られるとすごく痛い。これよりいいと思っていたが、泳げない者はかわいそうだった。何としても舟から離れるのをいやがった。また、上手な漁師などは、手足をしばって落としても、心で笑っているようだった。

気仙沼を出て、宮古港へ。海上では何もなく、港へ着いたのは良かったが、俺は、表で(舟の前ということ)の見張信号だったので、舟が岸壁に近づいたら、ロープを持って飛び上がり、舟をピットに繋がなくてはならん。それを、ロープを持って、波間を利用して舟が前に動く時に飛べば良いのに、後ろへ動いた時に飛んでしまったから、ドボンとやってしまって、上げてもらった。陸へあがって、港の中を魚取り舟が通っている。乗っている人の中に若い娘さんがいたのを見た。男たちが兵隊に行っていないから、女の人でも頑張っているのだ。その日焼けした肌は、美しく、頼もしかった。小学校へ入り、今夜は夕食をもらった。ここの待遇も大したもので、青年団、婦人会総出で、酒は出すは、歌は出るは、大賑わいとなった。

小田上等兵が歌ったら、あの人は本職かと大もて。この時、小田さんと俺は初年兵で遠慮しているのに、2人で女に追われ、何か言われはせぬかとヒヤヒヤものだった。終わったら、3人、5人と別れて、民家に泊まることになっていた。俺等は5人が1軒の家に泊まった。

朝の弁当を飯ごうに詰めてもらい、昼になって開けてみたら、どこの家からの弁当も、ご飯は一杯、おかず一杯。気持ちがうれしかった。

出発時間が近づく、まだ、誰が来ないと言っていたら、3人が走ってきた。見送られながら頭を下げ出航。今日は、最終点の八戸に向かう。舟の中では昨日の話で持ち切り。中には娘がいたとか、未亡人がとか、話に花が咲き、ホラが加わり、ウソも入って、話はますます大きくなり、今日は、早、八戸に来たのかと1日が本当に早かった。有名な海猫島100メートルくらいの島は、糞で真っ白だった。すぐそばを通り、八戸の鮫の港に入った。この港へ入ったら、3メートルもある鮫を3匹ずつもウインチで陸上げしていた。民謡の八戸小唄も良く聞かされた。この港は浅いのが欠点で、ある時は、今日は波が高いから注意して港へ向かって、河口に入ってきて、難所という時、進路がちょっとずれたと思った。前がドスンと下へ着いたような気がした。その時、波が後ろから舟を持ち上げた。前から波がドーッと入ってきた。波と一緒に後ろのエンジン室まで飛ばされてしまった。その時、波は前に行った。舟の前が上がった。舟は、水が入っているが、ようやく浮き上がった。舵を切って、深い所へどうにか向けて港へ着いた。分隊に帰って、その話をしていたら、中沢という内地から入っている召集兵の初年兵がアアーといったかと思ったら、口をガバッと開けて、腕も足もビンと曲げ縮め、硬くなってブーと言っている。びっくりした。とっさに思い出した俺は、今まで1回テンカンで倒れた人を見たことがあるので、アッそうだと思った。何やかにやと言って心配している間に静かになったが、口がふさがらない。どうしろと言うと、皆がそれは固くなって口が開かさった時に顎が外れているのだといった。水の怖い話をした結果だった。聞いたら、彼は水テンカンだったと言っていた。船舶兵が水テンカンでは。その後は帰されたか、いなくなった。

これで横浜-八戸間の演習が終わった。八戸で1か月余り。リンゴの産地なので買いに行って、皮のまま5個から7個たべた。今でも無茶なことをしたと思う。

6 2回目外泊

昭和19年12月、今年もあと少しの時に外泊の2回目が出た。これで外泊するのも終わり。心騒ぎがしていたが、3泊ぐらい家でできるのかと思っていたが、3番目の夜になって空模様が悪くなってきた。明日の朝、家を出れば旭川まで4時間かかる。松島へは31日の夜12時までに着かなければならないが、危ない。仕方ない。夜のうちに出掛けようと家を出た。父は、今思ってみれば、何もこれで今度帰ったら戦地に行くとは言わなかったが、親は子供のことを分かっていたのではなかったろうか。そんなことを言っても親を悲しますだけだと思って、一切話さなかった。

父は、旭川の駅まで送ってやるというので、2人でとぼとぼと雪の夜道を2人で歩いた。日中であれば末広町から電車があったが、夜だから駅まで5時間もかかった。駅でウトウトしたら父に起こされた。時間がないから、すぐ汽車に乗り、出発した。父は、心配して気を張って起こしてくれた。この親心を思った時、俺ならどうだろうと考えた。俺は、一生忘れられない。50年過ぎた今でもかわいそうなことだった、申し訳なかったとホロリとする。あの戦争さえなかったらこんな親不孝はしなくて済んだのにと。

どうにか汽車は、12月31日夜12時ころに松島へ着いた。まず時間内に帰った。幾日か過ぎ、俺等は進級することになった。「陸軍船舶兵2等兵理塀繁太郎は、昭和20年1月〇日を以て、1等兵に進級いたしました。ここに謹んで申告いたします」と中隊長に報告し、今日から星が2つになった。

松島に駐屯していて思い出に残るのは、瑞巌寺境内に軍の仮設風呂があった。水を運び風呂を火を焚いて沸かす使役に行っていた。風呂は沸いた。古年兵が、部隊長の来る時間までまだあるから入ろう、となった。俺等は遠慮したが、古年兵は入った。初年兵にお前らも早く入れとなった。心配だったが入った。2、3分も経ったか、外にいた古年兵が「来た」といった。全身から血の気が一度に引いた。飛び上がって、どうして服を着たか分からん。

部隊長 清水少佐、副官 中根大尉
夜になった。点呼になり、今日の隊長命令で隊長の前に風呂に入ったものがいる、誰だ、ということだ。大変なことになった。分隊の数人で使役に行っていたのは分かっている。古年兵も言わない。自分らも入ったのだから俺等に言えとは言わない。俺らも姿は見られていないが、飛び上がった風呂の水が波打っていたと言うことだ。その後、毎晩のように責められたが、とうとう最後まで口を割らなかった。俺も普通ならばとっくに謝っている。しかし、今回は、俺も若いし、運が良ければ出世するかもしれない。一生の命を懸けている軍隊なのだ。1週間近くも続いた。考えれば、中隊長にしても、班長達にしても、すでに支那事変に行っていて実戦をしてきている人たち。腹の中ではいろいろな考えがあったと思う。今、戦争に行く部下を風呂に入ったことにより、そのあとはどうすると考えてくれたのだと思う。部隊長も副官も士官学校とか大学出の将校だった。実戦の経験はない。

外泊した時、家から正月の餅をもらってきたのを外出でもした時にでもと思い、300メートルほど離れたところの民家に預けておいたのを、戦地への出発も近いので隙を見て走って持ってきた。普通の兵舎なら大変、旅館だからそんなことができた。

ようやく戦地へ行く日が来た。石巻から軍用列車で瀬戸内海の広島市の宇品へ。目の前に1キロメートルくらいもあると思われる大きな三角姿の良い島に、記憶は弱いが1週間くらいはいたと思う。300メートルほど離れたところに船舶特攻隊がいた。雪がフワフワと降るのに上半身裸で体操やマラソンをして心身を鍛えている。我々とは一段の差がある。皆、年齢は普通の兵隊より若い。今、現在の高卒枠の少年兵だ。特攻隊を志願させられ。志願という者は自分から願い出ることなのに、当時の特別攻撃隊というのはさせられる志願だった。考えれば、国のために死に行くという志願だった。

当時、我々の食料は少なく、可哀そうなものだった。特攻隊の兵舎へ行くと、残飯を捨てていた。彼らの舟と言えば、今でいうモーターボートと思えばよい。しかし、そばに行ってみれば立派な舟ではない。舟の全長は、4、5メートルあろうか。幅1メートル余り。左右に金具があって、敵の何万トンもの大きな軍艦を鎮める威力のある魚形水雷を両方に2発積んでいる。敵艦の停泊している港へ不意に現れ、必ず命中するところまで行って離す。魚雷には、スクリューが付いているので、水深2、3メートルのところを目的に向かって進むようになっている。軍艦の火薬庫にでも当たったら、どんなに大きな軍艦でも、自分の火薬が爆発して、艦は折れてしまい、沈没する。この舟はロープをほどいて舟にエンジンをかけたら、回転速度を調整できない。その瞬間から全力、舟が止まるまで全速、遠いぶつからないところでエンジンを止めて、カイで漕いで舟をつなぐ。速力は30ノット。普通の舟は当時8ノット、軍艦でも30ノットは最高くらいだと思う。1ノット(1海里)は、1852メートルというから、陸から見れば遅いように思うが、波が鳥が羽根を広げたように海水が立ち上がり、舟は見えず、鳥の羽根だけが見える。敵艦隊も楽ではないと思った。

特攻隊が出陣していくのを見たが、全員見習士官の階級で、陸軍曹長。本来なら、1年過ぎれば将校になる人たちだ。軍服姿の首に水色のマフラーをなびかせ、手には軍刀を持った姿は、本当に頭が下がった。凛々しかった。行けば必ず死ぬのが当然。

7 出航

4千トンもあろうかと思われる輸送船に乗って戦地へ。どこへ行くのか、我々には不明。瀬戸内海を通って初めて見る美しき国。日本人でも、こんな美しいところに住む人間もいるのだなと思った。松島は、日本三景のところに俺等はいた。しかし、瀬戸内海は全部が松島だと思った。松島の島を山としたようなものだ。九州の門司港に着いた。髪の毛を切って封筒に入れ、親あてに名前を書いた。これは全員が命令で書かされた。その気持ち。笑いながら書いたが、ちょっと何とも言えない気持ちだったことは、今でも忘れない。

2,3日ここで停泊した。この海峡は、潮の干満によって海水が日本海から太平洋へ、その反対にと川のように流れる。甲板に出てみると、向かいは門司だったのが、下関になっているという海峡だった。

玄海灘を通り、朝鮮沖。夏の朝鮮は知らないが、海から見た冬の朝鮮の山は身にしむような寒々とした感じだけが残っている。東支那海を横切って、揚子江の沖に出た。4千トンもの本船が3隻で軍隊と物資を積んで航海するのは、全く危なかった。そのころ、米軍は徐々に攻勢になり、日本軍は南方で、また島で後退や玉砕。海軍の艦船は、空爆の餌食となって沈み、我々の船もいつ潜水艦の魚雷攻撃を受けるか分からなかった。船の上、甲板の先で双眼鏡で日夜交代で、血眼で監視した。俺は、目と感が良いと言われて本当は機関士になりたかったのを通信の方をやめられなかった。船内と言えば、各ハッチは甲板から下までの高さは3階くらいのところへ何段にも棚を作って、これが部屋びっしり兵隊が入っている。横になったり、良く足を伸ばすことはできない。隣の兵の曲がった足の間に自分の足を入れる、というようなものだ。あぐらをかいて座って寝るしかない。それに今では話にならない話だが、中では暖房もないから、着る物を1枚でも多く着ている。そこで大敵のシラミという2ミリくらいの血を吸う虫が体中にいるようになる。こんな生活だから全部に移って、かゆくてかゆくて。しかし着る物がたくさんでかかれない。これまた何とも言われぬ腹立たしさだった。そんな中で食事になると飯ごうを甲板のところから持ってくるのだが、船は波によって横に揺れる。階段は、甲板から下まで続いている。これが横揺れすると角度が急になる。上から下まで急降下する。命がけだが、今、船はどっちに傾いたか自分で判断しなければ、本当に危ない。割合ドンドンと降りた方が、痛いだろうがケガはないようだった。俺はしなかった。

本船には、我々の上陸用舟艇をロープやワイヤで縛って積んである。舟にはテントを張って雨が入らないようにしてある中に、本船の中はあの状態だから、この中で漁師出もいるし、花札を毎日やっている。初年兵はしないが、分隊長からして古年兵は、初年兵のあっても使うところのない少しの金を負けると借りてはやっている。揚子江の水で数10キロも先まで黄色になって、さすが大河だと思った。その頃から海が時化てきた。波は、一段と高くなってきた。昼食の時間になり、班員の食事を飯ごうに5、6個持って甲板へ出たが、その時、本船が大きく揺れ、歩けない。これは、今までにない大波だなと思い、2、3歩行って物につかまり、船の起きるのを見ては歩いて、ようやく分隊の船のそばまで行った。また大きなうねりのような波が4千トンもの舟を4、50度近く傾けた。しかし、普通ならば次の波が来るまでに直るのが、直らないうちに次の波が来るまでに次の大波が来た。積んであった我々の船は、ロープが切れて、2隻もポカッと海へ本船から出てしまった。俺は、本船の底にいた。本船は、かしがっているから水面からは手の届くところにある。しかし、どうすることもできない。

俺の分隊の舟はと見ると、片方のロープが切れ、片方のみ付いていて、前がプランプランとなっている。ロープと言っても、太さは6センチくらいあるもので縛ってあるのが切れた。もう中には、本船に移って、誰もいなかった。それからが大変、小隊長はまだ若い25歳くらいの岩井少尉さんだったが、帽子もかぶらず、軍刀も持たず、本船の甲板から流されている自分の部下の舟に「こっちへ寄せろ。こっちへ」と俺が乗るからと怒鳴っている。俺は、瞬間的に感じたのは、この人は部下かと思って、危険なのは分からなくなっているかと思い、今にも出そうとしている片方の足を放さなかった。本船は、波にもまれ、高い時は6メートルもあり、下がったら2メートルくらいにもなるので、小さな舟は簡単に寄せられない。みんなが飛んできて話をして、完全に用意し、テントを張った2分隊の流された舟に乗り移ることができた。

俺は、中隊の表見張をやっていたので、4千トンのマストに上った。流れた船と言っても乗っているが船舶隊なので流されてはいない。エンジンもかかれば、航海もできる。しかし、本船も危険なくらいなので、小さい船はまったく危ない。漁師なんかに言わせると、今回の本船の船長か操舵手は下手だった。船が大きいから波を馬鹿にしている。俺らだったら、小さい船に乗っているから、こんな波の切り方はしない、と言っていた。
舟と手旗で連絡することになった。そこには、あの副官の風呂問題の中根大尉がそばにいた。俺に「大丈夫か」と聞け、「エンジンはどうだ」と聞け、助ける方法もしないで心配ばかりするだけで、部隊長がこんなことでどうするのかと思った。兵員を助けても、舟は捨てなければならない。部隊長は、俺と一緒に本船にいるからいいが、小さい舟はどうなるのだと。戦争というものの無残を感じざるを得なかった。波は、相変わらず荒い。マストの上から見ていても見えなくなる。下から見たら、波間に入って、ほとんど見えないだろう。本船が左右に揺さぶられれば、マストの上は、その何倍もの揺れ方で、船の上でなく、海の上のようだ。これは、大変なものだと思った。正午に離れた舟は、時間が経つに従って、だんだん遠のいて、信号もできなくなり見えなくなってしまった。遠くに支那大陸が見える。本船は、危険を避けて、島陰に錨を下ろして停泊した。夜を明かした。他の本船は、そのまま止まることなく進んで行ってしまった。

夜が明けて、波も収まって、島だとか遠くの大陸だとか、もし上陸していたら本船が沖に見えるからのろしでも上げるのではないかと注意していたが見えなかった。2泊して待って、本船は目的に向かって南下した。俺等はどこへ行くのか分からない。幾日か1隻で走ってどうにか着いたらしい。そのうちに、どこからかここは南支那の台湾に一番近い「沙頭」という街だということが伝わってきた。中の広い川を入って本船は泊っていた。陸には町が見える。下船、荷揚げと忙しくなった。本船から我々の舟で荷揚げが始まった。第1番に驚いたことは、盗みだった。俺ら初年兵は、戦争は未経験だ。古年兵は、分隊以下が2回目の召集で、すでに支那事変で戦っていている先輩ばかりだ。

8 沙頭到着

戦争とは、こんなものだと言わんばかりの盗み。毎日、本船からの荷揚げ、いつの間にか俺等の舟の床下には、牛肉の缶詰から始まって、いろいろな食べ物が入っている。食べ物が少なく腹が減っているので、ある時、瀬戸内海の舟の上で生のさつまいもをかじって、うまかった思い出もある。

町の中を通って、役所跡のような建物に入った。町中の様子や雰囲気はいっぺんにいやだなと思った。道端を見れば、食堂がある。入口あたりに鶏が、毛をむしった首のついたままの状態でぶら下がっている。食器は、油でどす黒い。全く胸が悪くなる。食事が始まった。これからの飯は、支那米。細長くて赤みがある。冷や飯になったらカンカンになって、箸も刺さらないくらいになる。これからは、こんな生活が始まるのかと思ったら、これを最後に俺の下痢が始まった。1日、2、3回は普通になった。医務室の世話になるまでもないのであきらめ、そのため、いつも腹がざわざわした。そのあとも治ることもなく、それ以上悪くもならなかった。体力は、以前より一段落ちたように思った。

いよいよ外地での任務が始まった。敵前上陸用舟艇なれど、ちょっと時期遅れなのに招集部隊に入っているので、戦争の第1線ではなく、後方輸送が任務となった。このため現役と違って、敵兵を目の前で切り殺したとか、刺殺したとかはになかった。沙頭から香港の間を沿岸に立ち寄りながら航海したが、舟は岬から岬を回って爆撃を避けるのに、夜より走れない。米軍のB-29は、舟の走る道を知っていて、夜でも舟の通る道が一番危険なのだ。舟が夜走ると、夜光虫といってスクリューの回転によって海水が泡立つ。これが何百メートルも尾を引くので、飛行機から良く見えるのだそうだ。

爆音に注意しているが、ハッと思った時には、夜なのに黒い大きな影が頭上をかすめたような感じがした。夜光虫を出さないため、エンジンを切って舟は浮流する。爆音が聞こえるが、遥か遠くに行っている。この時間は、本当に恐ろしい。抵抗することもできない。逃げることもできない。「髪の毛が立つ、背筋が寒くなる」ということを聞いていたが、こうゆう時は本当だと思った。誰も声は出さない。頭の中はみな同じ。見つかってないらしく、来ないとなった、大丈夫と思ったら「陸に向かって全速」と命令が出た。小さな舟のエンジンは、力のあらん限り、マフラーからは火を噴いて逃れた。引き返して来られたらおしまい。

ある時も航海していたら、暗い夜なのに上から海に向かって光が飛んでいる。ハッと思って報告。舟が止まったら爆音がする。B-29だ。上を回りながら一点に向かって光が飛んでいる。我が軍の舟がやられている。俺等より、先に出た3中隊の舟艇だなとことだが、俺らがそこへ行けば、ただ餌食になるだけ。B-29爆撃機は、腹には爆弾を満載、機関砲を上下前後左右と、本体は動かなくても空中戦はできるのだ、ということだ。下からの小銃や機関銃は受け付けない。話では、乗員はスリッパを履き、ガムを噛みながら爆弾を落としているとか。戦争の初期に日本航空隊などは、南方戦線で活躍していた。俺らが家にいる時、東旭川出身の飛行隊長さんらが敵機230機も落として、加藤軍神と言われ、最後に戦死された。その人の生家を見にか拝みにか行ったことがある。今の東旭川駅の300メートル永山方向の水田農家だったと思う。

米軍の兵器は、ますます進歩していて、日本軍とは相当の差ができていた。ある時、戦友と2人で沙頭の兵舎で銃剣を付けて歩哨に立っていた。月夜の晩だった。爆音、B-29だ。見上げていたら来た。何機も。下から見たら腹の扉は開いている。爆弾が体を離れた。次々に落ちてくる。風を切る音たるや全く不気味とはこの音だと思った。瞬間、爆発。ドンもガンもあったものでない。連続爆発。距離は、50メートルもあったろうが、2人はもう伏せていた。土砂か家の破片か、下から上へ広がった。戦友が俺に再三「大丈夫か」と言う。俺は、「大丈夫だ」と言ったが、立とうとしたら左ひじが伸ばされない。右腕で立ったら、血が袖からタラタラと出た。友達は、自分の銃剣に手ごたえを感じて、大丈夫かと言っていたのだ。すぐ軍医のところで見てもらった。服を脱いでみたら、刺さった傷が開いている。通っていないだろうなと腕を上げられたら、裏に傷があり、こりゃ貫通しているとなった。大変だこりゃ。薬で中を通されるのではと思ったが、傷口を消毒して縫ってくれた。それからは、入室して休みだ。しかし、腕は腫れてきて、次の日になったら、膝かぶより太くなってしまった。2、3日して東京から来ている天田分隊長がこれを見て、これはダメだ、おかしなことになったら腕を切断にもなりかねない。俺が内地から用心のため持ってきた化膿止めがあるから、とそれを飲んだ。軍医の手当ても良かったか、自然と腫れは引いてきた。3週間もしたら、1日1日良くなった。

川のそばに入室していた。毎日退屈していると、6、7歳の男の子が恐ろしいのか、ソロッとのぞく。手までで招くとソロリと入ってきた。見れば、浅い箱に飴玉を入れていて、買ってくれと言うことらしい。言葉は通じないからなかなか難しいが、身振り手振りで意味は通じるのだが、大したもので駆け引きをすることを知っている。子供をいじめるつもりは更々ないが、面白くて。銭を出してこれだけくれと言えば、ダメと引っ込めるが帰らない。そんならいらないと言っても帰らない。少し取ると良くなる。それが可愛く、楽しみに。また明日来いと言ったものだ。本当に感心した。

そのころ、軍の舟は危険なので、支那のジャンクを雇って輸送もしていた。支那人1人に兵隊2人くらい。その舟は、支那の舟だから飛行機は日中でも平気。アンペラ帆を張って、兵も支那服を着て、麦わら帽子をかぶってしまえばわからない。ユラリユラリと海を行く。いろいろ準備して、夜はエビの天ぷらをしてくれ、食べたら久しぶりにこんなうまいものだったかと。その味は忘れられない。夜が明けて、今日にでも出発と思っている時、中隊から航海に出るから帰るように言われ、これでジャンクはだめになった。支那人を軍が頼む時は、妻子あり家があり船乗り上手で学問はない人を頼むことになっていた。

隊に帰ったら、すぐ航海の準備をして出航した。途中は、夜走っては浜に寄り、夜になったらまた走るという航海だ。日本は、この広大な支那大陸を占領したからといって、小さい港にも日本軍を1コ分隊でも置いて地方や港の警備をしている。

前に戻った話になるが、本船から流れた舟艇は、他の舟もあの荒波を乗り切って、支那大陸に上陸できて、兵器はあるし、支那人の世話にもなったとか。とにかく小隊長がいてくれたから、何日かして沖を通った日本の貨物船に助けられ、上海へ行き、日本軍に入り、1ヵ月ほどしてから全員が帰ってきた。帰ってから初年兵が1人病死した。小隊長は、中尉に任官し、本部に入り、航海に出ず、俺等の小隊長は代わった。

支那沿岸の港には、日本軍が1コ分隊でも守備している。それも可哀想に服はボロボロ、靴はなし、地下足袋から足が出ている。支那へ来てから7年間、日本へ帰ったことがないと言っていた。それを聞いて、日本は負けるのではと思った。

これは、軍人として、当時、口が裂けても言える言葉ではないが、町の中へ出てみると、まっすぐな道に女も子供も何かしているが、顔を出すと、パタパタと両側の家の中へ消えてしまう。もちろん、考えてみれば俺等は軍隊だが、普通、舟で出た場合、暑いから上半身裸が多い。逃げるのも当然だ。このようなことだから、時々匪賊に殺されることもあるという。また、ある時、港へ着いて、しばらくして、どのような用事で誰と話をしたかしれないが、舟のそばを支那人が両手を両袖に入れて当然はだしで近寄ってきたので、ハッとしたら、バリバリの日本語で話してきた。びっくりした。話によると、日本の憲兵だとのことで、これまた驚いた。当然、支那語もできる。いろいろな情報を得るためだとか。こうして治安の任務を果たしているのかと思ったら、頭が下がった。上官らと話してた。

時には、今夜はこの港で1泊となっていたら、支那人からの情報で今夜は何者かは知らないが、日本軍を襲撃するとの情報が入った。こうなると、恐怖。支那敗残兵軍というと武器もある。俺等は、小銃に機関銃くらいで心細いなと思った。そのうち、お前ら3、4名で舟を守りに行けと言われた。軍隊と言うのは上官の言うことは良かれ悪かれ全部命令で、反抗はできない。舟を止めているところへ行ったら、古年兵が俺等には小銃よりない。しかし、手りゅう弾は、何十発でもある。もしやの時は、慌てずやるんだ。敵を近寄せれば、10人来ても1発でやれるから、と自信があったかどうかは知らないが、その通りだなと思って心強かった。

時間が経ち、夜は10時を過ぎても平静だったが、眠ることはできないでいたら、遠くで銃声が聞こえた。かねて用意してある土のうの後ろに待機した。後ろは川だから、前からしか来ない。そばには手りゅう弾が1人に2、30発。そうしている間に、町の中にあちこちと人影が見え隠れした。俺等のところは、小隊のあるところまで、敵に向かって横に100メートルも離れていたので、遠いとも思う。その時、撃ち合いの音が夜の空に始まった。夜の空に閃光が飛び、小銃の音では頼りないが、バリバリと機関銃となると力強くなる。音を聞いていると、小隊の方は、どんどん進んでいっている。全く、攻められる時は恐ろしいと感じていたが、攻めるとなると俺も出て行って、手伝はなきやという気持ちになったが、任務が違うので様子を見ていた。

別な話になるが、航海するたび、小銃は、俺ら初年兵の銃ばかり持ち出されるので、天皇陛下の菊の紋の入った銃が毎日の塩水で手入れしていてもだんだん錆びてきて、来年までになったら、どのようになるかと心配にもなっていた。

ある航海に出た時、港へ入った。港と言っても、当時中国にはどこでも日本の港のようなものはなかった。全部が川、大きな川、小さい川を利用して、舟が出る。当時の支那には、上海だとか揚子江などには港があったかしれないが、香港のような自然の港は他にない。俺が見たところでは、魚取舟は、1人で櫂で漕ぐ。次に大きいのは、ジャンク。大きなアンペラの帆を張った船。次に大きいのは、黒木舟で、小さい白い帆をたくさん張って家族全員生活している。漫画に出る海賊船と同じ船、軍艦のようなものは見なかった。

前に戻って、舟を川に入れてロープで岸に縛った。近くにジャンクがたくさんいた。夜になったら、急に空模様が悪くなり、風が強くなってきた。そのうちに、舟のロープが細くて危ないということになって、太いのをもう1本張ることになったが、川は、真っ暗闇で、海からの上潮で波が岸壁にぶつかり、ダーッと走っている。「誰か、ロープを1本張ってくれないか」ということになった。この波を真っ暗な中を20メートルくらいではあるが自信のある者はいないと思っていたら、渡辺金太という初年兵が「俺が行く」と言った。俺は、渡辺の泳ぎの達者なことは知っていた。舟から見たら、頭を上げずにどこまでも泳ぐ。どこで息をしているのだと聞いたら「わきの下だ」と言ったのでびっくりしたことがある。太いロープが用意された。波は、ますます荒くなる。渡辺は、ロープを担いだ。あっという間に飛び込んだ。しばらく無言が続いた。その間の時間は少なくても、長い時間だった。闇の中から「できたぞ」と聞こえた。ちょうど陸上には守備隊があったので「守備隊へ行け」と班長が大声で、確かに「了解」の返事があった。

荒れ狂う波は、またもや危なくなった。舟が危ない。ロープを切って舵を切る。強風の時は、エンジン全開で切らなければ、風にあおられて舟は回らない。やっているうちにドスンとぶつかった。支那のつないである舟にポカンと穴が開いて、支那人が大騒ぎしている。この舟につないでやろうと思って、2人で飛び移り、ロープを縛った。舟と舟の間は、5、6メートルもついたり、離れたり上下している。古年兵が出てきて、だめだ、舟を寄せろということで、全員でロープを引いて舟を寄せてくれて、自分の舟に飛び移り、再び川の上流に逃れることができた。

別の航海の時も、河口に入って錨を下ろして舟を止め、夜に走っているから眠っていた。起きてみたら、引き潮になって、舟は砂の上にデンと座っていて、時間までに出発できないこともあった。

こんなことをしている間に、俺も星が3つの上等兵に進級した。古年兵で星2つの人の言うことには、3つの俺が言うことを聞かなければならない。俺より新しい兵隊はいないからだ。

9 終戦

その頃、戦況は日に日に悪化して、沖縄へも米軍が上陸したと聞いたが、日本軍の不利な報道は良く知らされない。米軍が支那大陸に上陸するのでは、と海の我々兵隊が陸上戦の訓練も時折やらせられていた。しかし、大陸よりも日本本土に行くのではと思っていた。

終戦を知ったのは、次の日くらいと思う。部隊長から話があった。話の中では、どうか勝手な考え方をして行動をとってくれるなと繰り返し言われた。もう、そうなっては、一応上官は上官だが、人間と人間。上等兵も隊長もない。階級章は家へ帰るまで付けていたと記憶しているが、まとまりが何かないから致し方ない。

隊の中には、漁師本職がたくさんいる。本当にそう思っただろう。舟はある。油もあり、食料もある。それに兵器もある。沿岸航海は、お手のもの。1ヵ月もかかったら海賊やってでも日本へ帰ることができる、と強い意見があった。終戦は知ったが、話し合いで日本も承知したのか内容は分からなかった。とにかく、日本は、昔から戦争に負けることがない。神風が吹いてでも勝つと子供の時から教えられてきたのに、負ければ男は去勢、女は遊び道具にされるとあおられて戦争になってきた。実際には、部隊長も、その後のことは分からなかったろう。

俺等の部隊長は、どのような乗り物でどのようにして行ったのかは知れないが、広東の本部へ行って、部隊の今後のことを頼みに行ったのだという話だったが、その結果、「そのような部隊は、知らない」と言われたということだった。どうなっていたのか、この部隊長は、その後、我々の前に最後まで現れなかった。当時の状況からして、部隊長も、我々隊員の命の責任ある人が、1人で歩くか、殺されたか、逃げたのか。その後、俺等のことは、中根大尉が九州の鹿児島から汽車に乗るまで見てくれた。

我々は、戦争の終わった南支那海を、日本の方向と反対に何日もかかって香港へ向かった。我々は、どうやら香港へ捕虜になりに行くこととになったらしい。思えば、沙頭の生活も終わりだと思えば、いろいろとあった。支那の当時は、普通の国民でも、その日の食べ物も十分ない状態で、ある時、町中の家で食事をしているのを見たら、野菜の葉を煮て食べていた。とにかく、生活は、いたって苦しい。毎日のあいさつは、「食事をしたか」ということだとか。

歩哨に立っていれば、支那人が10メートルくらい遠巻きにして立っている。いつ近寄ったか知らぬ間に、しまいには3メートルくらいにもなっている。物珍しさなのか、暇なのか、龍を1つ下げて、3時間でも立っている。大人も子供も皆裸足。いつの間にか、だんだん近寄って、しまいには3メートルくらいまで近寄ってくる。古年兵に聞いたら、それは危険だ。前にも、群衆が近寄ってきて、兵隊が裸にされたこともあると、時には、殺さぬまでも、一発ぶっ放して、脅した方が良いと言った。

やっと5、6歳の子供までが、天秤棒で両方にかごを下げ、落ちているものや、焚きものを拾って歩く。牛のふんを団子のようにまるめて、それを家の壁にぺたんと貼り付け、乾いたものは、焚きものとしている。話にならぬ。また、そうかといって、上流社会といえば、良い家に入って服装も良く、みんな靴を履いて美しい娘もいるが、全部が足を外開きで歩く、しゃがむと股を開いてがっかりだが、上流と下流の生活の差は大きい。
日曜日になると、日中は、33度が普通になる。素足では、コンクリートの上は、熱くて絶対歩けない。支那人は、小さい時からそのようにして歩いているので、足の指が開いている。他の者は、よく残飯を集めて、これと洗濯物を持って、どこへ行ってか、夕方まで遊んでくる。金は要らないと言っていたが、不潔だから、俺は、いつも日本人が商売している餅屋さんへ行って、餅を買って食べ、熱いお茶を何杯も飲む。暑いのに熱いお茶を飲んだら、汗は滝のように流れる。その後は体の中から涼しくなって、本当に気持ち良くなる。

明日、沙頭を出発するという。前日は、歩哨に立った。夜になったら、女が1人づつ4人も、誰々に会わせてくれと言ってきたが、任務上、全部追い返した。俺は、理解しがたい、人間同士というか、国境を越えた男女の仲というかを考えずにはいられなかった。中国を占領した日本軍を敵国軍と思っている支那人が、なぜ、日本人を慕うのかということは、これは国と国とは敵でも、生きている人間と人間は、どこの国の人間も同じ平和と安全な生活をして、幸福に生きるということを願っているのだと思えば、いまさらながら人と人が殺しあうことの戦争というものを考えさせられた。

戦争は終わった。帰れるか、今後のことは分からないが、とにかく、現在は、元気で生きていることは確かだ。第一線の部隊でなかったからだ。戦死した者は、部隊で20名もいた。負傷者もいたが、大した数ではなかった。

尻に機関砲の破片が入って、痛い、痛いと言って、うつぶせになって尻を押さえて連れられてきた兵を見ても、大きな負傷で手や足がなくなるような怪我なら、いっそ爆弾の真撃を受けて、跡形なく吹っ飛んでしまった方が良いか。他の召集兵さんのように妻があり、子供がありする人とは違う、弟等はいることだから後の心配はないと思った。俺は、今まで、人生の将来を夢見て、軍隊で出世しようと思ったことも、根本からゼロになったが、今となっては、何とかして、元気で帰ることが何よりの目的となった。

戦闘と違って、日中に航海ができた。最終点の香港が近くなった。大きな見上げる山のような島、それが過ぎればまた島、大小の島は皆山のような形だった。島があることによって、海の波は来なくなる。さすが、初めて見る支那の港だと思っていたら、爆音。飛行機だ。小型で最低空で水面から何10メートルのところを飛ぶ。乗員が、良く我々を見て飛んでいる。風になびく首に巻いた白いマフラーが不気味に映った。何時、場合によっては撃たれるやもしれぬ。助かるために来た我々だ。白旗を立てると言い出した。俺は、白旗を立てる軍隊に入った覚えはない。日本軍が白旗。涙が出た。皆、同じ思いだった。やがて、岸壁に着いた。初めて見るイギリス軍が陸上にいた。言葉も通じないから、身振り手振りで、武器を舟に置いて1人ずつ上がれということになったので、そのとおり上陸した。1列になって岸壁に海を背に、後ろは海まで1メートル。1人上ったら、銃剣が胸に。1人に1名の英兵の銃剣。何とも言えない。

話がなかなか通じない中で、英語をかすかにできる衛生兵がいた。話が通じた。敵の隊長の顔が一度に好意的になった。相手も相当の警戒心があったのだと思った。イギリス兵は、さすが背も高いが、鼻も高い。赤毛に青い目もいる。しかし、何かしらこの場で殺されるとは思いたくなかった。話が通じてから、武器も持って町のある建物に入った。ここは、九龍という町だとか。香港というのは、周りの島から見ると、高い山のすそに西洋風の高い建物がたくさん建っているのが見えた。

日本人のことだ、これからここで生活しなくてはと、いろいろ準備や整理に何かと忙しかった。1週間くらいした時、明日から住居が変わるということに。こんなに苦労して作ったのにと言っても致し方ない。その次の所は、3泊したら移転。それも今日のうちに。次は、3時間内。最終回の時は、「30分で出ろ」ということになった。外にいて、知らされたので、4階まで駆け上り、毛布に荷物をくるみ、下りて来たらもう下から銃剣を持った兵士が上ってくるようなことで、隊の食料などもこんなことで置かされて、無くなってしまった。これは、彼らの敗残兵にする手段で、食料は取ってしまって、命をつなぐだけしかくれない。力がなくて、反抗もできない。これが彼らの目的だったようだ。その頃は、もう武装解除されて、鉄砲も刀もなし。1日分としてくれる食料は、1回に食べても腹8分というくらい。3等分して食べる。1ヵ月もすると、もう捕虜らしくなってしまった。

そのうちに、敵の「使役に出ろ」ということになり、俺ら10人で大きな倉庫に。四角に機械で締めて梱包してある古雑誌のゴミだ。これが重さが80キロほどある。腹の減っている我々2人で転がしても、ゴトンと返せば次、またゴトン。後ろから尻に剣が今に届くかのよう。その時の英語は、今でも忘れない。「ジョニ、カモン」こればかり。「日本人、早くやれ」ということだと。汗びっしょりになったが、時間は短く。その時は、2時間くらいだった覚えがある。隊に帰り、1番初めだったので、皆心配して聞いたので話したら、お前らあまり本当のことを言うな。明日から、交代で他の者が次々にだされるのだから、と言われた。それからは、毎日交代で行くから、45日経ったら全部分かってしまったが、出る人員もますます増してきた。はじめはこのようであったが、2週間も続いていたら銃剣もだんだん緩み、顔色もだいぶ良くなった。いくらイギリスの顔でも、良い顔と悪い顔は分かる。

その頃、俺は、内地で2回目の松島からの外泊の時、父に話して買ってもらっていた短刀を武装解除の時、あまり惜しくて、刀の部分だけ持っていた。考えたら危険だと思って、まさかりで叩いて曲げようとした。少ししか曲がらなかったが、土の中に埋めてきた。

10 捕虜収容所

そのうちに日が過ぎて、連れていかれたところは捕虜収容所。これからがその生活。どこが米軍で、どこが英軍か、我々にはよくわからんが、香港は全部が英軍。しかし、その中に黒い軍はインド軍。この収容所は、かつては彼らが日本軍に入れられていた所、そこへ今度は日本軍が入れられ、彼らに監視されている。鉄柵の外は、インド兵。黒い顔、目だけは光っている。それが面白い。そのあとは、連日、使役に出されたが、連れて行くのはインド兵3人ほどで、30人くらいを連れて、朝から昼まで。そして、午後の者と交代。だんだんお互いが顔なじみと言えばおかしいが、学力のない兵隊が多い。人員を調べるのに大変。4列に並んで門を出るのだが、調べても良くわからない。それが俺等は分かっているから、次に調べる時、列中で動く。また、前と違うと時間がかかるのが嬉しくて良くやった。しまいには、1列にして調べて納得する。彼らも、仕事は二の次で、30人出して、30人入ればいいようだ。

良く細い川のどぶさらえ等に行かされ、まず、スコップで土を上げると、水がだらだらと落ちる。だいぶん上がったと思ったら、彼らも毎日のことだから、安心して、自分も退屈してか、ぶらぶらと歩きだす。すると、俺等は、来た時から見つけておいた乾いている大きな石に腰を下ろして休む。川の中だから分からない。そして、監視を監視する見張りをしている。「来たぞ」と言えば、土に水をかける。来た時には、仕事をしているように上から水が流れ落ち、土は今上げたばかりのようで、満足をしている。

時間が来たら、とぼとぼと連れられて帰る。途中は、腹が減りすぎていて、前の者の歩く足より見る元気はない。帰れば、コンクリートの床の上に毛布1枚敷いて寝る。当時でも、九龍の街は、英国との関係で道路は全部舗装されていて、青いもの、口に入れてよいものは何もなかった。

1ヵ月くらいごとに体の検査がある。裸になって、整列すると、ほとんどの者は、痩せて、目は引っ込み、映画に出てくる捕虜と同じガラガラだ。1列に並んでみると、その栄養状態は、良くわかる。特に悪い者は、調べられると拾った煙草を紙に巻いて吸う、人の拾ったのを自分の食物と取り換えるなどしている者だ。また、太っている者がいる。お前はどこへ行っているのかと聞くと、英軍が食うためか、豚を養っているところがあるらしく、そこの仕事に慣れているから指名されるのか、毎日行っている者などは、太っている。理由は、分かるかな? とにかく、いろいろな仕事に出され、それによって、体の調子が変わる。

また、ある時、英軍の兵舎へ仕事に行ったら、我々は、半分足の出ているような地下足袋を履いているのに、ゴミとして立派な履物がなげてあるところがあった。足に合わないと思うが、それを半数の者が履いた。帰りに1列に並ばされ、履いた者は全員脱がされ、帰ってから罰せよということになったとか。罰せよと言っても、明日から仕事に出さないということで、その分、出される者はどうなるのだと、たいして迷惑だった。

このようなことは、たくさんあって、書き切れん。インド軍の兵舎へ仕事に行った。兵舎の前にどうしたものか何かを燃やした後の灰がトラックに1台分ほどあり、それを運んでくれと言われた。バケツに入れて、天秤棒で前後に灰を入れて、2、30メートルのところまで運んだ。重たいふりをして、休みながら。そうしていたら、兵舎の中へ入れられて、「お前らは腹がすいているから、もう仕事はしなくても良い」とビックリしたことに日本語で、これには驚いた。2時間くらいであったが、説教を聞かされて、その時の話ではインドではお坊さんとなって修行しなければ一人前とは言わないとか、日本で1番先の神武天皇は髭が濃いだろう。あの人は、インドの人で髭が濃いんだ。日本の人は、インドの子孫なのだ。仲良くしていかなければと、こんこんと話してくれて、ありがたくなって帰ってきた。

11 入院

今日は、昭和21年1月元旦。はるかに北海道を思い起こし、皆はどうしているだろう、正月の雑煮を食べているだろうなと思った時は、やかくそになって、真っ裸になり、外に水道があるので、頭から水をかぶった。香港の1月は、北海道の5、6月頃の気候だ。夏は暑すぎて、野菜など採れない。

ある日、午前中は無事だったのが、午後になり急に腹が痛くなり、下痢が始まった。夜になったら、一晩中、回数は分からないくらい。次の朝、軍医に診察してもらったら、赤痢と断定されて、入室と、隊内にある病室に移された。病室に入ってみたら、伝染病の患者で満員。トイレの通路も便器が並んでいて使っている。1日も早く病院へと思っても、先客が多いからなかなか入院できない。4、5日も、何も食べずに頑張っていた。皆、寝台にいても苦しいから、何もできない。紙くずやごみが散らばっている。そこへ衛生兵が来て、使っている長柄のほうきで患者をたたく。星2つの兵が、そうなったら上官の権利が付くのか驚いていた。ようやく順番がきて、入院することになった時は、うれしかった。これで、助かったと思った。トラックの荷台に乗せられ、20分くらいだが、とにかくトイレ通いが本業なのだから、手ぬぐい2本を縄のようにねじって、股にはさんで入院となった。入院したら、トイレは寝台のそばにあった。木の箱の中にバケツが入れてある。それが便器。軍医に「お前らは何も食べる物はないと思うが、病院外のものを口にしたら帰れなくなることは間違いないぞ」と言い渡された。だんだん良くなって、おもゆがおかゆへと1級ずつ上がった。食事をもらっての生活、知らない兵隊ばかりだから、その時だけは俺も上等兵殿と言われた。変にくすぐったかった。とにかく、薬も十分にないから、食事療法で危険なほどは食わさずに直す。おかげで弱々しいながら、原隊に戻ることができた。その間、3週間くらいだったと思う。俺の入院中に、隊は、蒋介石支那軍の馬を養う使事に行っていたとのことだった。

どこからか帰還の話が聞かれるようになった。我先に帰りたいのは、誰も同じだ。日本の支那にいた陸軍は、中国の奥地からでも何十日かかって、何百キロも歩いて香港へ集結している。俺等は、それを見て、自分らはこれでも幸せなのだと思った。連日の行軍で倒れた兵もいたと思う。どうして来たのか、朝鮮半島から半島人が日本軍として入っていた。終戦と同時に彼らは、俺等は敗戦国の日本人ではない。一刻も早く、日本軍より先に返せ、と半島人兵は、日本人から抜け、団結して危険だった。我々の隊にも、人員を制限されて帰還命令が出た。その時、黒須さんという俺より3か月後に入隊した初年兵が帰ることになった。俺は、先に帰るから、着いたら家へ知らせ上るからと言ってくれたので、俺の状況を話してくれと頼んだ。出発以来、生死も所在も不明なので。家には爺ちゃん婆ちゃんもいる。元気だろうか。親、そしてたくさんの兄弟のことを思うといっぺんに帰りたい気持ちは、話しても分からないくらいだった。

その後、我らにも許可が出た。たくさんの部隊がいる中で、船舶隊は早く帰れるという話は前から流れていた。英国の船だったと思うが、これに乗った。やはり、3千トンくらいあったか。船は、たくさんの港で舟から舟へ商売をしている女たちの公園のボートのような小さな舟がいる中を港を出た。夜になった。隊内では、間違いなく走っているか見てくるかと言う話になった。俺も甲板へ出てみた。俺等は、夜の星を見て、海を走るのは本職なので、舟はどっちへ向かっているか分る。間違いなく、1隻で暗い海を北へ進路をとって航海している。幾日過ぎたか、右にかすかに見える沖縄の島、日本が近くなった。心は躍る。やがて、出発してから、5、6日も経ったか、九州が見えてきた。船は、まっすぐに鹿児島湾に入っている。まだ、日が暮れないのに、船は町がそこにある一跨ぎのところで止まっている。しかし、今夜は上陸できない。その夜の船の中は、眠っていた者はいただろうか?

次の日は、ようやく上陸、駅では貨物列車が待っていた。真っ黒い台車に馬並みに乗せられ、配られた最後の食料の乾パンを上から自分の頭の上にぶら下げて、満員電車の中のようにして、戸のない出口はロープで落ちないようにして。部隊長や中隊長の挨拶もこうなっては何もない。九州の人も分隊もバラバラになる。俺は、こうなったら別れる者は今のうちにと思い、菅井班長には世話になったからと、食料の中から飴玉を食べずに取っておいたのを最後にと言って渡してあげた。「良く取っておいたな」それではといって、頭を下げてくれた。

汽車は、九州を過ぎ、門司から客車に乗った。関門トンネルも分からなかった。大阪に着いた。ここでまた乗り換えて、東京へ。汽車の中は人間また人間。荷物を持った客、復員者。窓は破れて風が入る。満員列車の乗降口からは、乗り降りできないので、ガラスを破って入る。発車時間が来る。小便も出る。どうしたか、復員してきた海軍の奴らが殴り合いの喧嘩になった。理由は分からない。友達で喧嘩して馬鹿だなと思っていたら、次の日になったら話をしていた。

東京に入ってきた。だんだんと爆撃の跡が見えてきた。上野駅に着いた。待ち時間が3時間くらいあったので、駅前へ出てみると、闇市と言う店ができて、いろいろなものを売っていた。お菓子があったので買って食べてみたら、笹の実を固めたものだった。白いまっさらな饅頭があった。うまそうだ。買ってみたら、普通の芋の皮をむいた塩煮だった。東京の戦友などはどうしたか、家族は、と考えた時、俺は北海道で良かったと思いながら青森に向かって汽車は発車した。

相変わらず満員列車。何日も過ぎたのでもらった乾パンも少なくなった。青森までは行けるなと思い。それから先は、旭川まで食べずにでも何とかなる。東北本線を走る車中にいた復員兵が声をかけてくれ、話すことができた。青森に着いた。完全に世界は真っ白。その駅に立てば、寒くて仕方がない。そこへ、彼の人が入ってきた。他にも北海道へ帰る復員さんもいた。この人は、函館へ帰ると言った。昨日、話した人に聞いたら東旭川出身ということだった。俺は、たかすだよと言って、青森で一度に親しくなった。彼は、北支だったから捕虜にならなかった。支那は、当時、力がなくて、日本軍を捕虜にはできなかったということで、食料は米を持っていた。帰れば家は農家だ。心配ない、と炊いて食べようと言ってくれた。しかし、燃やすものがない。しばらくして、バリバリと音がした。彼が持ってきたのは、駅の壁板をはがしたものだった。見れば、壊して焚いた跡がある。飯ごうで飯を炊いて食べた。他に何もないが、うまかった。

帰りの北海道への連絡船は、小さな貨物船だった。前に何回も乗ったあの大きな連絡船はどこに行ったのか。出航した船内は窓もない。電気も消えた。真っ暗だ。函館へ上陸したら、昨日、函館へ帰ると帰ると言っていた兵が外套に首をすくめて、とぼとぼと、何も持たずに来る。階級は、兵長さんだった。おかしいなと思って聞いたら、船の中が真っ暗だったので「俺の荷物は、全部なくなっていた」という話だった。戦場から大切に背負ってきた我々の荷物は、どんな物も一生大事にしなければならない財産だったのに可哀想だった。

腹は満腹で出発して旭川に着いたら、午後1時くらいだったか。このまま鷹栖へ行くと明るいうちに着くと思った。人に会うのが恥ずかしい。出征する時は、小学生からたくさんの人に日の丸の旗を振って見送ってもらったのに、今、荷物を背負って、刀も持たず、やせてとぼとぼと帰る姿は何としても見せられなかった。

駅前に食堂があった。入って腹ごしらえをして、時間を見て、鷹栖へ向かった。旭橋を歩いていると、隣の家の藤原さんの姉さんに会った。声をかけたら驚いて「やあ、帰ってきたの。良かったね」と言ってくれた。家の者、元気だろうかと聞いたら、10日くらい前に爺ちゃんが亡くなった。「会えなかったね」と。私は、医者へ来ているとか。別れて、春光台に向かっていたら、後ろから馬橇が来た。馬をよけたら、その人が荷物を背負った兵隊を見た時に復員とすぐ分る。その頃は、元気でいたものは、ぽつぽつ帰っていたからだ。「どこから帰ってきたの」と聞いてくれて、香港からですと言ったら「まず、馬橇に乗りなさい」と言われ、私は北成の理塀ですと言った。その人は、13線9号の永田というと言った。すると、永田さんから家まで8キロくらいあるのに、また帰ってこなきゃならないのに送ってやると言われ、遠慮したが、家まで来てくれ、一休みと言ったがすぐ帰られた。送ってもらってありがたかった。

家に行って見たら、電気は家中にこうこうとついている。中をのぞくと、戸が外され、中には他の人もいるようだ。おかしいな。旭川で藤原さんに聞いたことは、爺ちゃんが10日前にと聞いていたのに、と思いながら戸を開け「俺、今帰ったよ」と言ったら、驚いてみんな出てきて、兄さんだ、兄さんだと大騒ぎとなった。聞いたら、婆ちゃんが亡くなって葬式を今日終わったのだ、と言う。家では、悲しみと喜びが一緒に来たようだった。もう10日早く帰れたらと思うと残念だった。聞けば、爺ちゃんも婆ちゃんも、黒須さんからの手紙で兄ちゃんは元気で香港から近いうちに帰ってくると知り、安心して喜んでいてくれたと言うので、残念な中にも、それだけでも良かったと思うよりなかった。

それは、
昭和21年2月11日であった。

俺の大東亜戦は終わった。数日後、旭川の陸軍復員局世話部とかいう役所(現在の神社前交差点北の角(当時練兵場)にあった)へ届け出て、復員手続きを完了した。

平成11年11月30日 75歳記
理塀 繁太郎 (大正13年3月20日生、平成23年8月10日没)

大東亜戦思い出(原文)

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