適切な判断
操縦課程を卒業したばかりの若き准尉だった私は、どこか海外で大きな仕事をやり遂げたくてウズウズしていました。そんな私にとって、ホンジュラス共和国のソト・カノ・エアー基地で非戦闘任務を行っていた統合戦術部隊ブラボー(Joint Tactical Force Bravo)への配属は、望んでいたとおりのことででした。
その部隊に配属されてから最初の数ヵ月間は、定年まじかのベトナム戦争時代のパイロットなど、多くの偉大なパイロットたちの指導の下、何百時間もの飛行任務を経験させてもらいました。そして、派遣期間の終了が約4ヵ月後にせまった頃、まだ1等准尉だった私が、機長に指定されるという栄誉を得たのです。
新人機長の私に与えられた最初の任務は、空軍衛生兵をいくつかの小さな村に空輸し、ホンジュラス国民に予防接種を行うという5日間にわたる任務でした。私が搭乗するUH-1は、古い機体でしたが、良く整備されていました。GPSのない時代であり、その集落までたどり着くためには、地図と時間、距離、機首方位を使った航法が必要でした。その集落は、多くの場合、何もない場所の真ん中に小屋が集まっているだけでした。
最初の経路は、長時間の飛行を伴うものでした。離陸後1時間かそこらは、搭乗員同士の会話が適度に保たれ、空を飛んで任務を遂行していることに喜びを感じていました。ドアを解放してピンで固定していたクルー・チーフは、1時間ほど経つと退屈し始めていました。ドアから吹き込む暖かいそよ風と頭上のT-53エンジンの単調な唸り声は、後席の搭乗者たちを眠りへと誘っていました。
その時、ドア・ガナーが、退屈しのぎに、降下して曲がりくねった狭い川に沿って超低空飛行を行うことを機内通話装置で提案したのです。他の搭乗員たち全員がその提案に賛同しました。後席の搭乗者たちもその提案に興奮しているようでした。私たちは、任務計画ブリーフィングにおいて、この任務における低空飛行の実施について確認していました。低空飛行は、規則上、「必要に応じ」行うことができると定められており、飛行隊のSOP(standard operating procedure, 作戦規定)もその実施を機長の判断にゆだねていました。私は、その時点で超低空飛行を行うことが「必要」だとは考えていませんでしたが、搭乗者たちにちょっとしたスリルを味わせて、血が騒ぐような興奮を経験させたいという気持ちもありました。
その時、私は、他の機長たちが何カ月も前からやってみたいと思っていたことを実行できる立場にありました。搭乗員たちは、「ノー」と明言しなかった私が迷っていることを察していました。周りの者たち全員からの圧力が感じられました。機内通話装置は、「やりましょう!」とか「やろう!」とかいう言葉であふれていました。衛生部隊の長である空軍大佐もドア・ガナーのヘッドセットを借りて、「それがどんなものなのか、空軍にも見せてくれ!」と私をけしかけました。副操縦士である大尉も、それに加わる始末でした。しかし、その時すでに、私は、遊覧飛行のために任務から逸脱することに悪い予感を感じていたし、自分の予感を信じることの重要性を学んでいた。
そのままでは気持ちが収まらない搭乗員たちは、やるか、やらないかの決心を私に求めていました。そして、私がそれを「否定」する決心をしたとき、全員が一様に失望していました。任務を続行した私たちは、その後2日間をかけて12以上の村を訪問しました。3日目、次に向かう村が、前回、私が低空飛行を行わなかった川沿いにあることに気が付きました。着陸に先立ち、着陸および搭載地域の偵察を行いました。最初に気付いたのは、その村が実際には川をまたがる形で存在していたことでした。村の半分は川の一方の岸にあり、残りの半分は川の反対側にあったのです。
そして、着陸直前になって、2つの集落の間の川を渡って、ケーブル線が張られていることに気づきました。着陸後、そのケーブルを確認すると、それは5センチメートル位の太さがありました。それは、川の一方の岸から反対側の岸まで手紙や小包を送るためのものでした。その時、私は雷に打たれたように感じました。もし、あの時、その川の上を低空飛行していたならば、そのケーブルに衝突していたかも知れないのです。そのような太いケーブルには、ワイヤー・ストライク・プロテクション・システムも効果がなかったかも知れません。90ノットで飛行していた私たちは、致命的な事故を起こした可能性がありました。私の飛行機、搭乗員、その他の搭乗者たち全員が、川の底で死んでいたかも知れないのです。
私は、搭乗員を集め、ケーブルを見させました。そして、彼らが低空飛行を提案したことを覚えているかどうか確認しながら、彼らに示そうとしていることの重要性を分からせるようにしました。クルー・チーフが首を振りながら言った言葉は、「機長の判断は適切でした」でした。彼は、それから数日間、私と会うたびに「機長の判断は適切でした」と言う言葉を繰り返しました。
この出来事は、私の搭乗員と私自身に多くの教訓をもたらすものでした。あの時、私は、搭乗者全員や何人かの上級者からの強いプレッシャーにもかかわらず、適切な判断を下すことができました。しかし、それを考慮してもなお、私にも全く落ち度がなかったとは言い切れないのです。この事例の場合、誤った判断は、死を意味したかも知れません。パイロットとして、そして兵士として、私たちは本質的かつ必然的にリスクに立ち向かわなければなりません。しかし、自らリスクを求める必要はないのです。
出典:KNOWLEDGE, U.S. Army Combat Readiness/Safety Center 2017年01月
翻訳:影本賢治, アビエーション・アセット
備考:本記事の翻訳・掲載については、出典元の承認を得ています。
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1件のコメント
機長が准尉で、副操縦士が大尉。陸上自衛隊ではありえない米陸軍のこの体制は、(少なくともこのケースの場合は)良い方向に働いたような気がします。
私は現役の頃、整備幹部でしたが、頑として自分自身の信念に従って、それを曲げない整備陸曹に何回も助けられた気がします。